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透明な日々

作者: 富山晴京

 九月十九日の午前八時のことである。僕はありふれた家庭の、ありふれたベッドの上にいた。しかしここがどこなのか、僕にはわからなかった。そして僕が何者で、何歳で、なんという名前なのかも思い出せなかった。

 僕はベッドから起き上がった。そして下の階に降りてみた。するとほんのりと焼けたパンの香りがした。僕はその匂いをたどって、歩いて行った。すると食卓に着いた。食卓には中年の女性がいた。女性は本を読んでいた。

 やがて女性が立ち上がった。女性の視線が僕の方に向く。しかし女性は僕には目もくれず、 階段の方に顔を向けた。

「悟志、起きないと学校に遅刻するよ!」

 女性は言った。

 悟志が応える声は聞こえなかった。女性はしばらく声が返ってくるのを待っていたようだった。けれども声が来ないことにしびれを切らし始めたと見えて、自分から階段を上っていった。そして僕が出てきた部屋へと入っていった。

「悟志!あれ、どこへ行ったの?」

 女性は言った。

 僕は階段を上って女性の後を追った。女性は空のベッドを見つめて戸惑っていた。

 そこについさっきまで僕は寝ていた。そして悟志がここに寝ていると、この女性は思いこんでいた。してみると、僕は悟志としての記憶を失っているだけで、実は悟志なのかもしれない。

「あの、すいません」

 女性は答えない。この時、僕の心に黒い水がしみ込んでいくような不安を感じた。

「あの」

「どこなの、悟志?どこにいるの?」

「すいません!」

 僕は叫んだ。けれども女性には聞こえなかった。

 僕はぞっとした。先ほど、無視された時のことから察するに、声さえ聞こえないようである。その時、僕は自分の存在がこの世から消えてしまったのではないか、ということを感じた。それは恐ろしい想像だった。それはあり得ないはずだと思いもした。僕はここにいる。どうして誰も気づかないのか。

 僕は女性の肩に触れた。僕は女性に触れることができた。けれども、女性はふりむくどころか、何の反応も示さなかった。

 僕は女性の肩を揺さぶった。その時、女性が初めて反応を示した。女性が肩に手をやった。けれども僕を見ることはなかった。ただ、肩を不思議そうに見つめるばかりだった。

 それよりも女性は、悟志君のことが気になるようで、悟志を探しに歩いて行ってしまった。

 僕はおかしくなってしまったのか?誰からも見えず、声も聞かれることもなくなってしまったのか。それとも、この女性の感覚がおかしいだけなのか。

 僕は恐ろしくなって、家から出た。

 家から出てすぐ、僕は一人の男性を目にとめた。全然見知らぬ人だった。

「すいません!」

 しかし男の人はすたすたと歩き去ってしまった。僕の声はこの人にも届かなかった。


 あれからいろいろなことがあって、いくつかのことが分かった。まず、僕という人間は確かに存在していた。腹は減るし、何かに触れることもできる。物も壊した。コンビニでアンパンを食べた。アンパンをかじると歯形が残った。

 ただ、その一方でアンパンを万引きしたことを誰も見とがめなかった。僕が見えないことは先程の出来事で理解してもらえたと思う。しかしもしそうだとするなら、僕自身は透明でも、アンパンは見えるはずである。そうなれば透明の僕がアンパンを食べれば、ひとりでに消え失せていくアンパンの様子が人の目に映るわけである。

しかし僕が人前でアンパンを食べても誰も驚きはしなかった。一人、アンパンが浮いているところにまっすぐぶつかってきた若い女性がいた。けれどもその人は僕のアンパンが服にぶつかるのも構わずに、そのまま歩いて行った。そして何食わぬ顔で去って行ってしまった。

 僕はこの世界に存在していながら、社会に存在していなかった。僕はそのこと知って以来、ずっと、あてもなく街をさまよった。目的などなかった。ただ、寿命を終えて死ぬことだけが僕の将来にあるばかりだった。

 しかしある時、その将来は全く別のものへと変わった。僕は僕を認識してくれる人に出会ったのである。

 僕が道を歩いている時だった。僕は道を歩くときはたいてい、人にぶつかる。どんなによけようとしても、向こうがまるで遠慮なく歩いてくるものだからどうにもよけられないときがあるのだ。

 僕はそんなことにあくせくしながら、人混みを歩いていた。僕は前方からやってくる男をよけた。しかしよけた先から、一人の女学生が歩いてくる。ぶつかるかと思った。ところが女学生は止まった。そして方向転換して、僕をよけていったのだ。人が僕を無視してぶつかってくることに慣れていた僕は、この出来事に驚いた。そしてすぐさま、女学生を追いかけた。

「すいません」

 僕は女学生に声をかけた。ほかのだれも振り向かなかったが、女学生だけが振り向いた。

「いや、僕が見えますか?」

「え、はい」

 女学生は戸惑いながらもうなずいてくれた。眉にはしわが寄っていて、「何言ってるの、この人?」と感じていることが理解できた。けれども僕は、僕を認識してくれた初めての人からどうしても離れずにはいられなかった。

「僕、実は透明人間なんです」

 僕は女学生の気を引こうと思って、そう言った。しかしそれは失敗かも知れないと思った。それというのも、女学生はいよいよ不審の念を募らせたような表情をし始めたからだ。

「いや、だから――」

 僕が言葉を言いかけた時、人が後ろからぶつかってきた。僕は右に体をそらして、どうにかその人を前にすすませた。

「今の見たでしょう?誰も僕が見えません。だからぶつかってくるんです」

「何ですか、それ?」

「声を出しても誰も聞こえません。見ててください。おい、通り魔だぞう!通り魔が出た、逃げろお!」

 僕が突然大声を出したことに女学生は驚いた。けれどもほかのだれも、僕の声には反応しない。

「ね、誰も聞こえないでしょ?」

「だから、何ですか?」

「だけど、君だけは僕が見えます。これはどういうことなんでしょうか?」

 女学生は周りに視線を走らせた。見ると、通行人たちが女学生に視線を向けていた。

 女学生は彼らの気をひいてしまっていたのだ。何もないところに向かって話す彼女はどう見ても気がふれたようにしか見えないはずだ。そうなれば、ここでこれ以上話すのはまずいと思われた。

「場所を変えて話しませんか?」

 僕は言った。

 女学生はしばらく僕を見つめると、向きを変えて歩き出した。僕にはそれが逃げ出したように見えた。

 僕は追いかけた。すると女学生は路地裏に入っていった。僕も路地裏に入っていくと、僕を待ち受けるように立っている女学生の姿が見えた。

「あなたは幽霊なんですか?」

「幽霊じゃないと思います。幽霊はご飯を食べるはずはないとは思いませんか?」

「ご飯、食べるんですか?」

「君はどうして僕が見えるのですか?霊感か何かがあるといわれたことはありますか?」

「いいえ、そんなものはないです、たぶん。幽霊とか見たことないし」

「そうか、じゃあなんででしょうか……」

「あの、もういいですか?学校に遅刻しちゃうんで」

「あ、そうですよね。すいません、引き留めてしまって」

「いいえ」

 そういって女学生は人混みの中へ戻っていった。僕は女学生と別れることが惜しかった。けれども追いかける理由などなかった。僕はただ女学生を見つめていた。

 突然、悲鳴が聞こえた。僕は悲鳴に驚いて辺りを見回した。

 一人の男が包丁を持っていた。それも二本、両手に持っていた。その男が女学生に向かっていった。女学生は両手を胸の前で組み合わせたまま、突っ立っていた。

 僕は走り出した。そして男が女学生にたどり着く前に、僕は男の胴を捕まえた。男はいきなり動けなくなったことに驚いたようだった。けれども依然として歩み寄ろうと躍起になっていた。

 僕は男にバックドロップをくらわした。僕は倒れた男の包丁を奪い取ると、そこいらに放り投げた。

 倒れた男に多くの男が群がった。そのことに安心した僕は男から離れた。

 そして女学生のそばに向かった。

「大丈夫でしたか?」

 そう声をかけた時、僕は少なからず興奮していた。一人の人間を救ったという誇らしい気持ちを感じていた。

 だから女学生からお礼を言われることが当然だとも思っていた。けれども女学生は僕の言葉に反応しなかった。

「あの、聞こえてますか?」

 女学生は辺りをきょろきょろとを見回している。誰かを探しているようだった。例えば、自分を通り魔から救ってくれた人、などを。

 僕はその時、まったく唐突に一つのルールを理解した。僕は間もなく死ぬべき人間にだけ見えるのだ。ただし、死を回避した人間には今まで通り僕のことが見えなくなる。

 そんな馬鹿なことがあるのか、と思った。僕は世界を憎んだ。どうして僕を認識してくれる人が、よりによって間もなく世界からいなくなる人だけなのか。そしてそれを救ったら、どうしてまた認識してくれなくなってしまうのか。僕は突如自分に与えられた性質のために、強制的に社会から追放されたことが悔しくてならなかった。そして永遠に自分には親しむべき人間は存在しえないのだと思うと、将来を照らす光がすべて取り上げられてしまったような、そんな気持ちになった。


 この出来事以来、僕は自分のことを認識する人が現れたらその人についていくようにしている。そして自分のできる限り、死から救い出そうとしている。

 そんなことをしても僕にとって全く利益にはならない。お礼を言われるわけでもなく、また親友ができるわけでもない。

 僕が人を死から救い出すのは、まったくその人の命を助けたいからとか、かわいそうだからとか、そういう気持ちではない。

 僕が人を助けるとき、僕は自分が存在して、何かを成し遂げたように感じる。その時、僕はこの透明な日々の中にあって初めて、幸せを感じるのだ。僕はつまるところ、僕自身を救うために人を救っているのである。


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