正義と悪魔
予定通りフランツとの昼食を終えて、リーゼロッテは今、家庭教師と一緒だ。
ハルヴィットの王女としての教育と、これからタイスのロッシュフォード伯夫人になるために必要な教育の両方を受けなければならず、リーゼロッテには自由な時間はほとんどない。
シルヴィアは与えられた仕事の合間を縫って、レイのところに向かっていた。
近衛兵の詰所に着くと、真新しい制服に身を包んだレイを呼び出した。
黒を基調に金色でパイピングされた制服に、金ボタンと金のタッセルが輝く。制服と同じく金色で縁取ったハーフマントは、濃いワインレッドだ。
人気のない場所で二人きりになって、レイは気取って言った。
「どうかな。見違えただろ? さっきまでの没落貴族の服装とは」
「そうね。生地がとても良いから」
「ああ、着心地は最高だよ。……この色が最低だけどね」
マントに視線をおくったレイの顔からほほえみが消える。
「まるで血の色ね。それがなければ似合っていると言っていたわ」
クラナッハ家の象徴たる赤に、シルヴィアはわずかに眉を寄せる。
レイは再び口元に笑みを戻した。
「それで? 何か言い足りないことでもあった?」
「……王女は見事にあなたに恋をしたわよ。もしも婚約が破棄にでもなったら、どうするつもり?」
「そこまで馬鹿じゃないだろ。それに、そうさせないのが君の仕事だ」
「それはそうだけど……」
不満げに顔を曇らせるシルヴィアに、レイはいたずらっぽく笑った。
「良い解決策があるけど」
「……どんな?」
「君が一言いえばいい。レイは私の恋人ですって」
シルヴィアは一瞬面食らう。それから、からかわれているのだと理解した。
「ふざけないで。そんなこと言えるわけがないじゃない」
「どうして?」
「あなたのことは、従兄として紹介しているのよ」
「結婚も許される間柄だ」
「…………」
すると突然、レイがシルヴィアの手をとった。驚いたシルヴィアのすぐ真上から、レイが瞳をのぞきこんでくる。
「フランツに、俺が恋人だと思われてしまうのが、嫌?」
シルヴィアは手を振りほどこうとしたが、レイが強く握って離さない。
「違うわ。レイ、いい加減にして。この間からいちいちつっかからないで」
「つっかかりたくもなるよ。ずっと一緒にいたのに、ついこの間まで、君の心の中にあの男がいるなんて、知らなかった」
「言わなかったことが悪いの? だって、再会するなんて思ってもいなかったのよ。それに、私たちが任務を全うする上で、何の関係もないことだわ」
「関係あるよ」
レイはひどく優しい声で言った。
「君が傷つく」
シルヴィアは目を見開いた。
「君が傷つくのを、見ていられない。どうすれば君の心の中から、あの男を消し去ることができる?」
シルヴィアは小さく息をつき、力なく首を横に振った。
「無理よ。過去が消せないのと同じよ。でも私は、傷ついたりしない」
「…………」
「それよりも、傷つくのは王女の方だわ。最終的に、私に裏切られていたと知って、しかもあなたまで私の仲間だと知ったら……」
「どれほど俺たちを、憎むだろうね」
その事実は、シルヴィアの心に重くのしかかった。
「あのジーク・クラナッハの娘は、君にとって、それほどの存在?」
レイの言葉は、シルヴィアがいつも自問するものと同じだった。答えはずっと見つからない。
シルヴィアの声のトーンが自然と下がった。
「……良く分からないの。でも、彼女が私の家族を殺したわけじゃない」
「でも今のリーゼロッテの幸せは、俺たちの不幸の上に積み上げられたものだ」
「それを壊すのは、私たちよ。私たちにとっての悪魔がジーク・クラナッハのように、彼女にとっての悪魔は、私たち」
シルヴィアは深い息を漏らした。
そういうことを、何も考えないでいられた間は良かった。しかし、一度気づいてしまうと、その思いは亡霊のようにシルヴィアにつきまとった。
「……覚悟はあったし、分かっているつもりだった。でも」
シルヴィアは視線を落とす。
「時々すごく、重い」
思わず漏れた弱音が、ずっしりと質量を増してシルヴィアの肩にのしかかった。
復讐には、とてつもない気力を必要とした。想像以上に、それはシルヴィアを疲弊させた。
「……でも私には、この生き方しかない」
決意したはずなのに、それでも揺れる。苦しんでふらついて、それでも正しいと信じた道を生きていくしか術がない。少なくとも、この復讐はシルヴィアにとっての正義だった。
「はやく、終わらせたいの」
それは偽りのない本心だった。
シルヴィアは再びレイに視線を戻して、懇願するように言った。
「だから不必要なことは、できるだけ避けたいのよ。王女の扱いには、くれぐれも気を付けて」
それには何も答えずにレイは、すっと真顔になってシルヴィアを見つめた。
握られた手はまだ、つながれたままだ。
「シルヴィア。すべてが終わったら、俺と一緒に逃げる?」
そう言ったレイのまなざしがやけにつらそうで、シルヴィアは言葉に詰まった。
逃げるって、どこへ? そう答えようと思ったけれど、言葉にならない。
結局、シルヴィアが口を開くよりも早く、レイはシルヴィアの手を離し、いつものようにほほえんだ。
「冗談だよ。言ってみただけ」
悲しげに響いた声に、シルヴィアの胸がちくりと痛んだ。
せめて何か言うべきだったのにと、シルヴィアはひどく後悔した。