運命の輪
その後、シルヴィアは修道院の運営する孤児院に送られていた。
誰に聞かずとも、状況は耳に入ってきた。
ハルヴィットはジーク・クラナッハのものとなったこと。
オルデンベルグの城にいた一族は皆殺しにされたということ。
同様にオルデンベルグ家に仕えていた多くの貴族もまた、家族もろとも命を失ったということ。
修道院で暮らすようになって一年がたった頃には、シルヴィアは理解していた。父も母も兄も、もうこの世にはいないのだと。
信じたくはなかった。でも受け入れなくてはならない現実がそこにはあった。悲劇に見舞われたのは、自分だけではなかったから。
孤児院には、自分も含めて常時二十人前後の子供たちが暮らしていた。中には自分の年齢の半分にも満たない幼い子もいる。その姿を見てしまえばもう、シルヴィアは現実から目を背け、いつまでも涙を見せるわけにはいかなかった。
未来など見えない暮しの中で、シルヴィアはいつもあの言葉を思い出した。
『つらくても、どうか生きてくれ』
それはシルヴィアの心に残った最後のともしびだった。
この命は、母が逃がしてくれた命なのだ。つらくても、生きなければ。しっかりしろ。しっかり、生きろ。シルヴィアはいつも自分にそう言い聞かせた。
それからさらに二年が過ぎ、シルヴィアが十三歳になった、よく晴れた日のことだった。
シルヴィアは修道院に併設された共同墓地を訪れていた。
父と母と兄。たくさんいた使用人たち。シルヴィアが名前も知らない多くのカルヴァリースの民。彼らは誰が誰とも判別できないままに、共同墓地に葬られていた。
運ばれてきた遺体をひとつひとつ確かめることはできなかった。それができる数ではなかったし、衛生的な問題で遺体は迅速に埋葬されなければならなかった。
もしかすると、父と母と兄の遺体はそこにはないのかもしれない。それでもシルヴィアは、祈る場所を他に知らなかった。
広い共同墓地の中央にある石碑に花を手向ける。そしてそこを見渡せる、少し離れた木陰に場所を移して腰を下ろした。石碑の前では献花に訪れる人が絶えないから、人気のないその場所が、いつもシルヴィアの場所だった。
修道院に引き取られた当時は毎日、長い時間をここで過ごしたものだ。最近は月命日の日に訪れるだけになった。シルヴィアは膝を抱えて体を小さくした。
膝の上にあごを乗せ、ただ真っすぐに眼前を見つめていると、静かに涙がこぼれおちた。自分の他に誰もいないから、今だけはそうすることを自分に許した。
そよ風が、長い髪を少し揺らした。母と同じ亜麻色の髪。もう長いこと梳かしていない。鏡の前に座る機会なんてなかった。きっと薄汚れて、ちっぽけな自分がそこにいるだろう。
シルヴィアはいつの間にか、膝の上に額を押し付けていた。
顔を伏せたまま、しばらくそこから動けずにいると、突然声が降ってきた。
「シルヴィア」
聞き覚えのない声に呼ばれ、シルヴィアは顔を上げた。
いつの間にそこにいたのだろう。目の覚めるような美しい少年が、シルヴィアの前に立っていた。
じっとしていると彫刻なのではないかと思ってしまうくらい整った顔立ちに、これが同じ人間なのだろうかとシルヴィアは驚く。
(今、私の名前を呼んだ……?)
なぜなのか理解できなくて、シルヴィアは言葉を返すことができなかった。
すると彼の形のよい唇が、もう一度呼んだのだ。
「シルヴィア・ハーシェル」
心臓をわしづかみにされたかのように、シルヴィアは一瞬息を忘れた。
オルデンベルグ家に仕えていたハーシェルという家名は、もう捨てたはずだった。捨てざるをえなかった。生きていくために。
かつては運よく助けられたが、クラナッハの兵は一人も逃すなと言っていたのだ。もしも前宰相の娘だとわかれば、殺されてしまうかもしれない。
シルヴィアは小さく息をのんで、首を横に振った。
「人違い、です」
かすれた声でそう答えたシルヴィアと目線を合わせるように、彼は片膝をついて姿勢を低くした。
「隠さなくても、いいよ」
シルヴィアは立ちあがることもできずに、座ったままあとずさった。
頬を強張らせるシルヴィアに、彼は天使のようなほほえみを見せた。
「怖がらないで」
「…………」
「君を迎えに来た。遅くなってしまったけれど」
「…………」
「俺の名前は、レイ。レオンハルト様の命で、ここまできた」
「……レオンハルト、様?」
「そう。かつてはレンドリー公と呼ばれていた。いまはライズ辺境伯のところに身を寄せている」
シルヴィアは遠い記憶を必死で呼び戻した。レンドリー公レオンハルト・オルデンベルグ。先の国王の、腹違いの弟だ。
「……生きていらっしゃるの?」
信じられないといった様子で、シルヴィアは大きく目を見開いた。
「ああ。オルデンベルグ派をまとめて、準備を整えている」
「準備って、まさか……」
「ハルヴィットを、あるべきところに、取り戻す」
レイの群青色の瞳が、強く光った。
シルヴィアは頭の中が真っ白になる。彼が言っていることが、すぐには理解できなかった。
何も言えずにいるシルヴィアを、レイはただじっと待ってくれた。
しばらくたってからようやく、シルヴィアは喉の奥にはりついた言葉をしぼりだした。
「また、戦いになるの?」
「……そうだね。不必要な血は流さないというのが、レオンハルト様の考えだけど」
レイは少し首をかしげて、シルヴィアの様子を探るように、瞳をのぞきこんできた。
「君は今、幸せ?」
その言葉に、シルヴィアの目から涙があふれだした。簡単には説明のできない思いが、後から後からこみ上げる。
「……ここにはいつもたくさんの子供たちがいるの。ここだけじゃない、どこの修道院も同じだって聞いたわ。大人は皆言うの、前はこんな風じゃなかったって。身寄りのない子供はこんなにいなかったし、簡素だけどきちんと食事があって、仕事を覚えて、十分に生きていくことができたって。でも今は――」
レイがシルヴィアの手をとった。骨の浮いたか細い手が、きゅっと強く握りしめられた。
落ち着いた、しかし強い憤りのこもった声で、レイは言った。
「あのクーデターが起こって、それでも、もし今このハルヴィットが幸せならば、諦められたのかもしれない。でも、そうじゃない。クラナッハ家には政治経験がなく、力で民を抑えつけているだけだ。タイスにいいように操られて、このままではハルヴィットは滅びる」
そこまで言ってひとつ息をつくと、レイは声の様子を変えた。
「あの時たくさんの人が死んだけれど、レオンハルト様は生き延び、そして他にも生き残った人間を探したんだ。ハーシェル家のことも調べた。君の行方だけが分からなかった」
レイの言葉が今、皮肉にもシルヴィアの家族の死を決定づけた。シルヴィアはわずかに身を震わせた。
「君をずっと探していたんだ。手がかりが少なくて、何年もかかってしまった。遅くなって、ごめん」
シルヴィアは目を閉じて、何度か深呼吸をした。
涙は止まらなかったが、気持ちは落ち着いた。
それからゆっくりとまぶたを持ち上げて、はっきりとした口調で告げた。
「……私は、ルノー公サイラス・ハーシェルの娘、シルヴィアです」
シルヴィアの頬を伝う涙を、レイは手を出してそっと拭ってくれた。
「会いたかった。シルヴィア」
はかなげな美しいほほえみを見せるレイに、シルヴィアは熱を帯びた強いまなざしを向けた。
「レイ。私にも、何かできる?」
レイは目をみはった。
「シルヴィア、君を迎えにきたのは、安全なところに連れていくためだ。君に何かをさせるつもりなんて――」
レイの言葉を遮るように、シルヴィアは首を左右に振る。
自分の胸の奥底で、か弱く揺れていた炎が、息を吹き返すように燃え上がったのが分かった。
「いいえ、やるわ。やりたいの。父と母と兄の代わりに、私が」
レイは困ったような、心配するような表情をしていたが、シルヴィアの決意が変わらないのをすぐに理解してくれたようだった。
さっきからずっと握っていた手を引いて、レイはシルヴィアを立ちあがらせた。
「分かった。一緒に行こう、シルヴィア」