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愛しき日々

 シルヴィアは、カルヴァリースにあるオスカーの屋敷に身を移すことになった。

 これからクラナッハの城は一部が取り壊され、修復してかつてのオルデンベルグの城へと姿を戻す予定だ。それまでの間は、レオンハルトやセシルも、こちらで過ごすことになっている。


 その日、忙しい戦後処理の合間を縫って、セシルがシルヴィアの前に姿をあらわしていた。


 与えられた一室で二人きりになる。こうして向き合うのは、随分久ぶりだ。部屋の外では近衛兵たちが扉を守っている。今までのように、気楽に出歩ける立場じゃない。


「シルヴィア、なかなか時間が取れなくてごめん」


 シルヴィアは黙って首を横に振る。

 セシルはひとつ息をついてから、ためらいがちに言った。


「黙っていて、ごめん。君にだけは打ち明けるべきかとも思った。叔父上も反対はしなかったし」

「……いいえ。どうかそんな風におっしゃらないでください」


 そう答えると、セシルは途端に顔を曇らせた。


「その話し方は、君に黙っていた俺に対する罰?」

「セシル様……」

「その呼び方も。他人行儀なことはやめてくれ」

「…………」


 では何と呼べば良いのだろうと、シルヴィアは言葉に詰まった。困ったように眉を下げると、セシルは大きくため息をついた。


「二人でいるときくらいは、今まで通りに接して欲しい」

「でも……」

「シルヴィア、お願いだから」

「……わかったわ、レ――」


 言いかけて、シルヴィアは口をつぐむ。そうするとセシルはくすりと笑った。


「レイでいいよ。君からそう呼ばれるのは好きだから」


 それから彼は、そのほほえみを切ないものに変えた。


「レイでいた俺も、俺だから。失ってしまいたくはないんだ。そういう気持ちが、君になら分かる?」

「……分かるわ。つらくて苦しくても、一緒に歩いてきた自分の一部だもの」


 シルヴィアがそう答えると、セシルは小さくうなずく。

 それから彼は、シルヴィアの片手を優しく手にとった。


「シルヴィア・ハーシェル。ずっと昔に、俺が会うはずだった婚約者」

「……昔、修道院に迎えに来てくれた時、あなたは言ったの。会いたかったって」

「良く覚えてるね」

「覚えているわ。忘れられるはずがないもの」

「会いたかったよ。本当に」


 セシルはシルヴィアの手の甲にそっと口づけを落とした。

 美しいセシルがそうする姿は、とても絵になった。

 しかしそれをあくまで冷静に見つめている自分に気がついて、シルヴィアはセシルの唇が離れるのを待って申し訳なさそうに言った。


「……ごめんなさい。ここで頬でも赤らめるべきだとは思うけど」


 そういう初々しさは、失った少女時代に忘れてきてしまった。

 するとセシルはシルヴィアの手を離し、可笑しそうに笑った。


「正直だね。いいよ、別に」

「あなたに対して、嘘をついたり、演技をするのは嫌だから」

「気にしないよ。嘘でも演技でも見抜けるから」


 それは確かに、そうかもしれない。

 シルヴィアも少し笑って、話を戻した。


「レイ、さっきの話。打ち明けようとも考えてくれていたのに、結局話してくれなかったのはどうして?」


 責めるつもりなのではない。ただ知りたかった。

 するとセシルは腕を組みながら、わずかに首をかしげて自嘲的に答えた。


「婚約者だと打ち明けて、それで君の気持ちを縛ってしまいたくなかった」

「レイ……」

「フランツのことを知った後は、正直、縛ってしまいたいとも思ったけどね。俺はフランツよりもずっと前に、君に会っているんだし」


 その言葉に、シルヴィアの双眸が驚きで見開かれる。

 フランツとの出会いよりも前ならば、あのクーデター以前ということだ。そんなはずはなかった。会ったことがないから、シルヴィアだって、婚約者の名前しか知らなかったのだから。


「……会ったって、いつ?」

「俺のことは覚えてないみたいだったけど、君は俺の贈ったリボンを大事にしていたって言ってくれたから、うれしかった」

「リボン……?」


 シルヴィアは思い起こす。大事にしていたリボン。あの日失くしてしまった菫色の。

 シルヴィアの脳裏に幼き日の思い出が鮮やかによみがえる。あれは六歳の時だと記憶している。


『どうして泣いてるの?』

『……お勉強が難しくて。私の覚えが悪いから、先生も困っているの』

『勉強ってどんな?』

『王子様の婚約者になるために必要なの』

『王子の婚約者になるのは、嫌?』

『……嫌じゃないわ』

『だけど、つらい?』

『うん……。でも、つらいのは私だけじゃないから。きっとセシル様は、私よりもずっと大変な思いをされているわ。だから、がんばらないといけないの』

『……でも王子は、もしかすると、そんな立派な人じゃないかも』

『そんなことないわ』

『どうして分かるの? 会ったこともないのに』

『疑っていては、信頼は生まれないわ。他の人が信じなくても、私はセシル様を信じる』

『…………』

『ねえ、あなたは誰?』

『……またきっと会えるから、その時に教えてあげる。それまで、忘れないでいてくれる?』

『うん。約束する』

『じゃあ、これをあげる。忘れないでっていう、しるし』

『……綺麗なリボン。ありがとう。大切にするわ』


 たったそれだけの会話。楽しみにしていたのに、もう一度会うことはできなかった。そのことを幼いシルヴィアは残念に思っていたのだ。


 シルヴィアは息もつけないほど驚き、やっとのことでかすれた声を出した。


「レイ、あなただったの……?」

「忘れないでって言ったのに」


 くすりと笑ったセシルに、シルヴィアはよろよろと力なく首を横に振った。


「忘れてないわ。あなただと思わなかっただけよ。だって私にリボンをくれたのは……。女の子、だったのよ」


 柔らかそうな髪からリボンをほどいて手渡してくれた女の子は、天使のようにかわいらしかった。今、目の前で美しいほほえみを見せるセシルに、言われてみれば面影がないともいえない。


「あの頃、俺は母や姉のおもちゃだったから、よくああいう格好をさせられていたんだ。それに、あの格好なら見つからずに城の外に出ることができたから。あの時も近衛兵に無理を言って、君に会いに行ったんだ。いつか婚約者になるかもしれない君を、どうしても見てみたくて」


 言葉の出ないシルヴィアを、セシルはじっと見つめてくる。


「婚約者だから好きになったんじゃなくて、シルヴィアだから好きになった」


 セシルの気持ちがまなざしからあふれて、シルヴィアは胸をつかれた。思わず声が震える。


「……あのリボン、ずっと大切に持っていたの。でもあの日、逃げる時に一緒に持って行けなくて」

「分かってる」


 シルヴィアはすぐ側のサイドテーブルに置いてあった小箱を取った。中には小さな菫色のコサージュがある。それを見て、シルヴィアの目頭が熱くなった。


「でもあなたに、これを貰った」

「……ぼろぼろだ。代わりのものを買うよ」

「代わりなんて、いらないわ」

「…………」


 セシルは腕を伸ばし、シルヴィアを自分の胸の中に引き寄せていた。


「ようやく、何でも買ってやることができるのに」

「……これが私には、何より大切なものだから」


 セシルは少し体を離すと、シルヴィアの瞳をのぞきこむ。紫みを帯びた、神秘的な深い群青色の瞳が間近に迫って、シルヴィアはめまいを感じた。


「……キスしていい?」


 その視線につかまって、もう動けなくなってしまっていた。シルヴィアはうなずくことしかできなかった。

 セシルの顔が近づいてきて、シルヴィアはゆっくりと目を閉じる。

 それは、失った日々を埋めていくような、切なくあたたかいキスだった。

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