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すべてを失った日

「シルヴィア、あなたはいずれオルデンベルグ家に嫁ぐ身。王子殿下の婚約者として、完璧な淑女レディが求められるの。先生方の言うことをきちんと聞いて励みなさい」


 厳しくも優しい母の声。

 それはシルヴィアの、懐かしく愛しい記憶。

 父がいて、母がいて、年の離れた兄がいた。皆がシルヴィアを愛してくれていた。


 結局、シルヴィアが婚約するはずだった王子に引き合わされることはなかった。社交界にデビューする前に、その機会を永遠に失ってしまったからだ。

 シルヴィアが家族を亡くしたのは、十歳の時だ。


 十年前、オルデンベルグ家の治めるハルヴィットに、クーデターが起きた。

 当時、軍の司令官を務めていたジーク・クラナッハが、隣国タイスと手を結びハルヴィットに刃を向けたのだ。


 ハルヴィットの宰相であったシルヴィアの父は、息子を伴って戦場へ出た。

 オルデンベルグ家の直轄領である王都カルヴァリースを守るため、父と兄だけでなく、オルデンベルグ家に仕える多くの貴族たちが戦った。

 しかしこちらの準備は十分ではなかった。その一方で、念入りに計画を練っていたクラナッハとタイスの軍により、防衛線は突破され、王都は地獄と化した。


 怒涛のごとく進撃してくる兵と、悲鳴を上げて逃げ惑う人々。剣が振るわれ、肉が斬られる音。建物は轟音とともに崩れてゆく。

 ハルヴィットではちょうど社交界シーズンが開始しており、多くの貴族たちがカルヴァリースに居を移していた。それは母とシルヴィアも同じだった。


 屋敷に押し寄せてくるクラナッハ兵を見て、母は即座にシルヴィアを連れて使用人のための通用口へと向かった。

 二人とともに来た侍女が差し出した簡素な服にシルヴィアを着替えさせると、母は丁寧に編み込んだシルヴィアの髪をほどく。

 一番のお気に入りだった菫色のリボンがはらりと床に落ちるのを見ながら、シルヴィアは母に強く抱きしめられていた。


「お母様?」

「逃げなさい、シルヴィア」

「……お母様は?」


 母はきつく抱きしめていたシルヴィアの身を離して、両肩にその手を置いた。それから、胸のせまるように美しいほほえみを浮かべた


「ここにはたくさんの人が残っているの。わたくしも一緒にここを守ります」


 母の言葉を一瞬遅れて理解したとき、シルヴィアの体はがたがたと震えだした。母の体にすがりついて、シルヴィアは激しく首を横に振る。


「嫌! 私もお母様と一緒にいる!」

「シルヴィア」

「嫌! 嫌! 絶対に嫌! 離れない!」


 半狂乱になって泣きだしたシルヴィアを、母はもう一度強く抱きしめた。


「愛しているわ、シルヴィア」


 次の瞬間、母は後ろで控えていた侍女の腕の中へ、シルヴィアを強く突き放した。


「お母さ――」

「行って! この子だけは、何としても守りきって!」

「いやぁ!!」


 侍女の腕にかき抱かれながら、シルヴィアはそれでも手を伸ばした。

 扉が閉まる瞬間、母が口をおさえて嗚咽する姿が見えた。


「やだぁ!!」


 泣き喚くシルヴィアを、侍女は決して離さなかった。


 混乱の中、シルヴィアは半分抱えられるようにして走る。

 しかし逃げ切るには、敵の数が多すぎた。


 間もなくして、兵にぐるりと囲まれる。

 剣が振り上げられた時、侍女は覆いかぶさるようにシルヴィアを抱きしめた。

 そして間もなく絶叫が聞こえた。シルヴィアは地面にうずくまって、もう何も考えられなかった。


 侍女の体の下から腕をつかんで引きずり出され、シルヴィアはいくつもの涙の筋が乾いた顔を上げた。


 その瞬間を、永遠のように長く感じたのは、たぶん気のせいだったのだろう。

 もう一度振り上げられた剣が、太陽光を反射して輝く。シルヴィアは目を閉じることもできなかった。


 そしてゆっくりと、剣が振り下ろされようとした時だった。


「やめろ!」


 凛とした声が響き渡り、同時に馬が駆けこんでくる。兵たちは動きを止めてそちらを向いた。


「まだ少女ではないか。剣を下ろせ!」


 馬上からきついまなざしを向けたその人物。少年の面影を残す、おそらくまだ十代の若者だろう。落ち着いた赤褐色の髪に、澄んだ空色の瞳。はっきりと、端正な顔立ちだと分かる。泥と、埃と、汗と、それから血に汚れてもなお、失われていない清涼感。


 指揮官らしき様相であるが、それでも兵たちは逡巡していた。きっと部隊が違うのだ。

 彼は後ろに騎馬兵たちを引き連れていた。そのうちの一人が、声を荒げた。


「スペンサー様の言葉が聞こえなかったのか!?」

「しかし、我々はクラナッハ様からひとりも生かすなと――」


 言葉は、怒りのこもった声で遮られた。


「黙れ」


 短く言って、彼は馬からひらりと下りた。

 つかまれていた二の腕を離され、シルヴィアは地面に崩れ落ちた。そのシルヴィアの前まで歩み寄り、彼は片膝をついた。


「もう大丈夫」


 シルヴィアは視線を上げる。空色の瞳と目が合った。


「……どう、して」


 やっとのことでそれだけ声になった。

 どうしてこんなことに? 本当はそう言いたかったのに、言葉にならない。代わりに、止まっていた涙が一粒こぼれおちた。


「……この戦いは、民のためではないだろう」


 苦渋に満ちた表情で、彼は答えた。


「すまない。僕には、とめられなかった」


 また一つ、もう一つ。涙が地面に染みを作っていった。

 呆然と涙を流すシルヴィアに、最後に彼は静かに祈るような声色で言った。


「お願いだ。つらくても、どうか生きてくれ」


 何も答えられずにいたシルヴィアを、数秒の間見つめて彼は立ちあがった。

 馬上に戻り、シルヴィアを囲む兵たちへ顔を向けた。


「戦闘の意志がない者には手を出すな。いいな」


 それから自分の後ろに控えていた騎馬兵たちに指示をする。


「彼女を安全な場所へ」

「承知いたしました」


 それを最後に、馬の首を回して彼はシルヴィアに背を向けた。身に着けていたマントが、ふわりと風をはらむ。タイスの旗と同じ、紫紺しこんだった。


「間もなくオルデンベルグの城が落ちる。行くぞ」


 耳に届いた彼の最後の言葉に、シルヴィアはゆるゆると顔を上げた。

 いくつもの硝煙が立ちあがる建物の向こう。

 そこには、救いようのないくらい、澄み渡った青空が広がっていた。

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