あなたに捧げる
それから五日が過ぎた日の早朝、シルヴィアはレイに話をするために、広い居城の中を足早に進んでいた。
レイの部屋近く、建物に囲まれた中庭に面した回廊で、ちょうどその姿を見つけて声を掛けた。
「レイ」
「シルヴィア、おはよう。早いね」
振り返ったレイの息が、少し白くなって空気に溶けていった。
昨晩遅くから今朝にかけて、霧のような小雨が降り続いていた。中庭を囲うように植えられた柊の木は、小さな白い花を咲かせている。雨が静かにその景色を濡らしていく。
シルヴィアはレイの真正面に立って、朝一番に言いたかった言葉を口にした。
「誕生日おめでとう」
「……ありがとう。今年も君が一番だよ」
レイはゆっくりとほほえんだ。
出会ってすぐ後、彼の生まれた日を知って以来、シルヴィアはずっとそうしてきた。何もあげられないけれど、気持ちだけは伝えたかった。シルヴィアにもレイにも、そうしてくれる家族はもういないから。夏にシルヴィアの誕生日がきたときにはいつも、レイも同じようにしてくれた。
「ごめんなさい。少しくらい何か用意したかったけれど……。状況が状況だから、外に出るわけにもいかなくて」
申し訳なさそうに言うと、レイは小さく首を横に振った。
「いらないよ。今年も君が目の前にいる。それで十分だ」
そう言った後で、レイは寂しげにシルヴィアを見つめた。
「……これからもずっとそうだと、勝手に思っていたけど」
シルヴィアは驚き、わずかに表情を固くした。
「ずっとそうでしょう? 私だってそう思っているわ」
「……シルヴィア。もうすぐ、戦いが終わる。終わったら、君はどうする?」
「どうって……」
「ルノーに戻る?」
久しく耳にしていなかったなつかしい名前に、シルヴィアは思わず瞠目した。
ルノーは幼き頃を過ごしたシルヴィアの故郷だ。代々のハーシェル家が治めてきたその土地を思って、しかしシルヴィアはため息をついた。
「仮にレオンハルト様が、ルノーをハーシェル家へ戻してくれたとしても、何の経験もない私が領主となっては、そこに暮らす人々に迷惑をかけるだけだわ」
表向きにはハーシェル家は断絶したことになっている。現在は政変後も生き残った貴族が新しい領主となっている。現ルノー公については、今のところはクラナッハ家に忠誠を誓っていることになっているが、真の主はレオンハルトと仰いでいるということを、早い段階から知らされている。
幸い、ルノーは領主が変わっても安定していると聞いているから、今更シルヴィアが戻る必要はないだろう。
「それに……」
シルヴィアは、レイから視線を逸らして空を見つめた。雨が少し強くなったようだ。濡れた柊が、上下に大きく震えていた。
「私の家族は皆、カルヴァリースで眠っているから。カルヴァリースから離れたくないの」
「……そうだね」
「だから、このままレオンハルト様にお仕えできればと思っているの。侍女でも、今のような仕事でもいい。どんな形でも役に立てるのなら」
シルヴィアはレイに視線を戻し、その瞳を見つめ返した。
「レイは? レオンハルト様にこれからもお仕えするのではないの?」
「……俺もカルヴァリースから、離れないよ」
「それなら、やっぱりこれからも変わらないわ。次の誕生日にも、おめでとうと言うわ」
するとレイはしばらく沈黙する。
不思議に思ってシルヴィアが首をかしげた時、レイは唐突に言った。
「シルヴィア、俺と一緒にいて欲しい」
「…………」
驚いて、一瞬言葉に詰まる。思いつめたような表情のレイに、シルヴィアの胸が締め付けられた。
シルヴィアはあの夜のことを思い出していた。はからずもレイの気持ちを知ってしまったときのことを。シルヴィアは恐る恐る口を開く。
「レイ、私のこと――」
最後の方は言葉にならなかった。
レイは自嘲的に小さく笑う。
「……君の心に他の男がいると知って、ショックだった。その時思い知った。ずっと一緒にいたから、君は俺のものだと勝手に勘違いしていたんだって。君の気持ちを確かめもせずに」
「レイ……」
「今でもフランツのことを想ってる?」
帰還から数日がたって、シルヴィアは少し自分の気持ちを整理することができていた。レイに気づかれないくらいに、小さく深呼吸をして言葉を選ぶ。
「……前に話した通り、フランツ様は私の命の恩人で、ずっと忘れられない人だった。正直、フランツ様の隣にいる王女をうらやましいと思ったこともあったわ」
「…………」
レイはわずかに目を伏せた。
「でも、だからといって何かをするつもりはなかったわ。助けてもらったと言うつもりもなかったし、フランツ様には王女を守って欲しいと心から願ったわ」
シルヴィアは自分でも知らないうちに、両手でドレスをきつく握りしめていた。
「でもレイは違う。あなたは私が傷つくのを見ていられないって言った。私だってそうよ。レイが傷ついて、苦しむのは嫌。レイが幸せになるためなら、私は何でもする」
それが何なのか。フランツの時とどう違うというのか。言葉で簡単に説明することができなかった。シルヴィアはこの気持ちにつける名前を知らない。
「私がいることで、レイが幸せになるのなら。それなら私は、あなたに人生を捧げてもいい」
レイは存在するはずのないものを見るかのように、大きく目を見開いていた。
そして次の瞬間、シルヴィアを胸にかき抱いていた。
「シルヴィア……」
シルヴィアの後頭部を押さえるレイの手は震えていた。シルヴィアの頰にレイの体温と鼓動が伝わってくる。甘く切ない想いが胸に響いて、シルヴィアはたまらなくなって目を閉じた。
「もう離してあげられない。君がつらいと泣いても」
「つらくはないわ。レイと一緒だから」
そう答えると、レイはシルヴィアを抱く腕に力を込め、その首元に顔を埋めた。それに応えようと、シルヴィアも自分の腕をレイの背中に回す。
「側にいるわ。あなたの力になると、レオンハルト様にも誓ったもの」
「……ありがとう、シルヴィア」
レイの声はかすれていた。そこから伝わってくる気持ちに、シルヴィアは涙が出そうだった。
しとしとと落ちる雨音が、二人を静かに包み込んでいた。