逃亡
もしもフランツがシルヴィアの身を案じ、道を開けろと言ったとしても、この場から逃げてすぐに追手がかかるだろう。馬はレイの乗る予定だった一頭しかいない。馬車は二頭立てだが、客車から馬を外している暇などない。国境を越えるまで、一頭で全力疾走を続けるのは無理がある。逃げた直後に追われれば、どうやっても逃げ切れないだろう。
「レイ」
シルヴィアは喉元にあるレイの短剣に、ゆっくり両手を伸ばす。
アダムがぴくりと目をすがめたのが、視界の端で確認できた。おそらくまだ、シルヴィアの存在をはかりかねているのだ。あの時おとなしく殴られたかいがあるというものだ。
頭のすぐ後ろで、レイの吐息を感じた。耳元でレイは、小さくつぶやいた。
「シルヴィア、ごめん」
予定を変更せざるを得なくなったことに対してというより、きっとレイは、シルヴィアの心情を慮っているのだ。突然、こんな形の別れになってしまったから。
「いいえ。私にあやまる必要なんてないわ」
そう答えて、シルヴィアはレイの短剣を手にとった。
その瞬間、レイがシルヴィアの拘束を解いて腰の長剣を抜き、そのままアダムに向って地を蹴っていた。
「……!!」
咄嗟にレイの剣を受け止め、アダムは振り返らずに叫んだ。
「フランツ様、お逃げください! 建物の中へ、お早く!」
その声に、馬車にいた馭者も逃げ出した。同じくして、レイとシルヴィアを取り囲んでいた軍服たちが動き出す。
「二人とも捕らえろ!」
アダムと剣を交えるレイに三人、シルヴィアに一人が剣を構えて立ちふさがった。短剣ひとつを持っただけの女には、一人で十分と考えたらしい。
じり、と男が一歩距離を縮める。シルヴィアは間髪おかずに短剣を正面の男の大腿へ投げつけた。男が悲鳴を上げたと同時にシルヴィアはすばやく動き、深々と短剣の刺さった男の足を、自分の足で払う。姿勢を崩した男の腕を取って剣を奪った。
「……この女!」
レイを囲っていた男の一人が、声を上げた。シルヴィアは、振り向きざまに背後からの剣を受け止めた。さらにもう一人、横から剣を振り下ろされる。シルヴィアは身を翻してそれを交わし、男たちを正面に捉えて剣を構え直した。
これで二人。レイにはアダムと残り一人。
男たちは目配せして、ゆっくりと二人の間隔をあけていく。挟みこむ気だ。シルヴィアの背中に冷や汗が伝った。一歩後ろへあとずさったとき、男たちがにやりと口角を上げたのが見えた。
その時、レイと戦っていた男が、背中からこちらに倒れこんできた。肩口を深く斬られてあった。男たちの注意が逸れる。シルヴィアはその一瞬の隙を見逃さなかった。剣を薙ぎ、片方の男の膝を水平に斬った。ひきつれた叫びが響きわたり、男は膝を抱えて倒れ込んだ。
無傷の男が手負いの仲間に呼びかけてから、大きく舌打ちをしてシルヴィアに向って剣を振りかぶった。剣は受けとめたが、男の渾身の一撃を、シルヴィアは堪えきれなかった。そのまま吹き飛ばされるようにして、背後にあった馬車の客車へと背中を打ち付ける。
強い衝撃で息ができず、そのままずるずると地面に腰を落としたシルヴィアに、男が迫った。
シルヴィアに手を伸ばした男の手は、しかしシルヴィアを捕らえることができなかった。横から突き出されたレイの剣が、男の脇腹にやすやすと沈み込んでいた。
目を見開いて膝を落とした男から視線を移して、シルヴィアは悲鳴を上げた。
「レイ!」
自分から目を逸らしたレイに、アダムは即座に剣を振っていた。咄嗟に振り返ったレイの上半身に、剣は流れるように袈裟懸けに振り下ろされる。レイの鮮やかな血が空に舞った。
「……っ」
「レイ!」
倒れ込みそうになるのを、膝と剣をついて堪えたレイに、シルヴィアは必死で駆けよった。シルヴィアも身をかがめ、レイの荒々しく上下する体を支える。あたたかい液体が地面にぽたぽたと染みを作っていた。
「……手こずらせてくれたな」
レイと何度も剣を交えたせいか、アダムも短い息を繰り返している。こちらを見下ろすアダムをにらみながら、シルヴィアはドレスの中に隠してあった短剣を取っていた。
一瞬油断していたのか、アダムは驚愕に目を見開いた。シルヴィアは立ちあがりざまに短剣を勢い良く突き出したが、アダムは横に体をひねってそれをかわす。しかし完全には避けきれず、アダムの左腕に深い傷がついた。
わずかに顔をゆがめ、アダムは大きく舌打ちをする。
「無駄な抵抗を」
と言ったアダムは、すぐに表情を曇らせて、斬られた左腕に視線を送った。途端に姿勢をふらつかせて、その場に剣を突き立てて体を支えた。
ドレスの中の短剣には、毒が仕込んであった。今に痺れが全身に回り、しばらくは体が自由に動かないだろう。これで時間を稼いで逃げ切れる。
「……貴様。何、を」
「レイ!」
「……大丈夫。行ける」
シルヴィアはレイを支えながら、つながれてあった馬に急ぐ。レイとともに馬上の人となると、手綱を引く。
その時、フランツの制止を振り払いながら、リーゼロッテが再び姿をあらわしていた。
「シルヴィア!」
涙声の叫びに、シルヴィアは思わず振り返る。裏切られた二人は、呆然とこちらを見ていた。
命の恩人に、そんな顔をさせてしまった。えぐられるような胸の痛みとともに、シルヴィアは前を向いて馬の腹を強く蹴った。