別れ
翌日、すぐに手配された代わりの侍女にリーゼロッテのことをあれこれと伝えていると、あっという間に夕刻になってしまった。
時間を気にしながらシルヴィアが部屋で慌てて荷物をまとめていると、扉がノックされた。
「準備はできた?」
部屋に入ってきたレイに、シルヴィアは顔を上げる。昨日殴られた頬は、昼頃まではまだ腫れていたが、時間の経過とともにおさまっていき、その代わりに青というより暗紫色を呈するようになった。目立たないように、シルヴィアは普段より濃く化粧をしてごまかしていた。
残念ながら、あまり効果はなかったようで、あざを見たレイは顔を強張らせた。
「大丈夫だから」
何か言われるまえに、小さく笑ってシルヴィアは言った。
「それよりレイ、あなたの仕事は大丈夫なの?」
レイはまだ何か言いたげにシルヴィアの顔を見ていたが、少し息をついて気を取り直したようにシルヴィアの質問に答えた。
「大丈夫。タイスでやるべきことはもう終わってる」
「早いわね。何をすることになっていたの?」
「挙式後、ゲオルクが王宮に向かう道筋を調べた。襲撃する場所もだいたい絞ってるけど、最終的には戻って相談して決める。後の仕事は、こちらに残る人間でやれるはずだ」
「そう。私はあなたをレオンハルト様のところに連れて行ったら、もう一度タイスに戻るわ。無事に式が終わるまでが、私の仕事だから」
何気なくそう返すと、レイは眉根を寄せた。
「それは駄目だ。君ももう、ここには戻れないよ。シルヴィア、俺のもう一つ仕事は、君を守ることだった。君だけを戻すなんてできるはずがない。そんなあざをつけられたばかりなのに」
シルヴィアは驚いて動きを止める。
「……でも、私が戻らないと怪しまれるわ。式が取りやめになってしまったらどうするの」
「戻ってから、何か手を打つよ」
「…………」
否とは言わせないレイの様子に、シルヴィアは思わず視線を落とした。
(……式を見届けると、約束したばかりなのに。それすらも私は守ることができないのね)
しかしその感傷を、おもてに出すことはできない。これ以上何かを言って、レイを困らせることはしたくなかった。
「分かったわ」
視線を戻したシルヴィアは、表情を変えずに答えたはずなのに、レイはわずかに目を細めた。
「……つらい?」
レイの瞳がはかなげに揺れる。シルヴィアを見るとき、レイが良くするまなざしだった。
いつもいつも、こうして心配をかけてしまう。自分のふがいなさにシルヴィアは腹が立った。
「いいえ、そんなことはないわ。レイ、私は大丈夫」
シルヴィアは自分に言い聞かせるようにはっきりと答えた。
つらくなどない、痛くなどない、悲しくなどない。自分の役目を終え、ハルヴィットを取り戻すことだけが、シルヴィアの目的だったのだから。
ふと、レイはシルヴィアの耳元へ手を伸ばした。耳のすぐ上には、菫色の小さな花の髪飾りがある。
「やっぱり、小さいな」
「……小さいから、可愛いわ」
「もっと立派なのを買うよ。すべてが終わった時には、きっと」
「いいのよレイ、私はこれがいいの」
「シルヴィア、君がつらい思いをするのももうすぐ終わりだ」
「レイ……」
「行こう」
レイの言葉に、シルヴィアは強くうなずいた。
荷物を運び出してくれたレイに続いて、スペンサー邸を後にする。
わざわざ見送りに外へ出てきたリーゼロッテとフランツに、別れを告げた。
「ゆっくり休んでくるといい」
「はい、フランツ様」
「待っているわ、シルヴィア」
「……はい、リーゼロッテ様」
膝を折って丁寧に礼をして、シルヴィアは姿勢を正した。
寄り添う二人を見ても、もう何も思わない。シルヴィアの心はもう揺れない。
荷物を積み、馬車の準備も整った。レイは馬にのって、並走することになっている。
そして馬車の扉が開き、シルヴィアが乗り込もうとした時だった。
「待て!」
行く手を阻むように、進行方向からアダムがあらわれた。後ろに四人も男たちを引き連れている。皆揃いの軍服を着ていた。
周囲の雰囲気が一変し、不穏な空気が漂う。フランツが怪訝に眉を寄せた。
「アダム、一体何だ」
「フランツ様、危険ですのでお下がりください」
シルヴィアとレイを、連れてきた男たちで包囲すると、アダムは腰の剣を引き抜いた。
「タイスの軍事情報が盗まれました。婚礼の際、ゲオルク・クラナッハがタイス王宮を訪れることになっていますが、王宮の兵の数、配置、すべてあちらに漏れております」
「何だって?」
フランツが声を上げた時、同時にリーゼロッテが一瞬で顔の色を失った。
「情報を漏らした兵はすでに捕らえてあります。そして間者はここに」
アダムは剣先をすっと持ち上げると、ある一点でぴたりと止めた。
その動きを追うように、全員の視線が集まる。鈍く光る刃の先にいるのは、レイだった。
「ゲオルク・クラナッハの手の者でしょう。国王陛下の命を狙っている可能性があります」
「……嘘」
信じられないようにつぶやいて、よろめいたリーゼロッテの肩を、フランツが即座に受け止める。
「お前をハルヴィットに戻すわけにはいかない」
アダムの言葉に、レイはゆっくりとほほえんだ。それは、思わず見惚れるほどに美しい表情だった。
「そうか。急いでいたから、仕事が雑になってしまったみたいだ」
その言葉に、リーゼロッテとフランツが目を見開く。
次の瞬間、レイはすぐ隣にいたシルヴィアを後ろから拘束していた。
「レイ……」
かすれた声を出したシルヴィアの喉元に、レイは腰の後ろから引き抜いた短剣をあてた。
「シルヴィア!」
リーゼロッテの悲鳴のような叫びが響き渡る。
「やめて、レイ! シルヴィアを離して!」
「シルヴィアは、大切な従妹だ。傷つけたくない。道を開けてくれ」
そう言ったレイに、しかしアダムは剣を下ろさず、冷静にシルヴィアを見据えた。
「この女も、仲間の可能性がある」
「そんなはずはないわ! 襲われて怪我をしたばかりなのよ!」
「そしてリーゼロッテ王女殿下、あなたにも嫌疑が掛かっています」
冷酷なアダムの言葉に、リーゼロッテは顔色を蒼白を通り越して土色にして、がたがたと震えだした。
「やめろ、アダム!」
フランツが厳しい声を上げ、リーゼロッテを庇うように、肩を抱く手に力を込めた。リーゼロッテの大きな瞳から大粒の涙が溢れ出した。
「……フランツ様。こんなこと、きっと何かの間違いです」
「大丈夫だから。何も心配しなくていい」
その時シルヴィアは、自分で想像していたよりもずっと落ち着いていた。喉に触れる短剣と同じくらい、心は冴え冴えと冷えわたっていた。
(リーゼロッテ様、フランツ様、さようなら)
たった一筋だけ、頬をあたたかいものが伝った。シルヴィアはそれを無視した。