願い
スペンサー邸に到着すると、シルヴィアはレイに送られて自分に与えられた部屋に戻った。
土や埃で汚れ、破れてぼろぼろになっていたドレスから代わりのものに着替えると、汚れていた肌を丁寧に拭いて髪を整えた。
それが終わった頃にちょうど、スペンサー家の医師が、シルヴィアの怪我の様子を見にやってきた。
既に血は止まっていたので、後はよく冷やすようにと言われて、医師とともに来た使用人から冷水がなみなみと注がれた水入れとタオルを受取った。
椅子に腰を下ろしてタオルをぬらすと、まだ熱をもっている頬にあてる。そうしていると、リーゼロッテとフランツがそろって姿をあらわした。
「シルヴィア、大丈夫なの!?」
飛び込むように部屋に入ってきたリーゼロッテは、青い顔をしていた。
シルヴィアはすぐに立ちあがったが、腫れた頬を見られたくなくて、タオルを当てたまま頭を下げた。
「大丈夫です、リーゼロッテ様。ご心配をおかけして申し訳ありません」
リーゼロッテの隣でフランツも、心配そうに眉を寄せている。シルヴィアは姿勢を正して今一度頭を下げた。
「フランツ様、医師の手配までしていただき、ありがとうございました。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
「当然のことだ。気にする必要はないよ。それで、怪我の具合は?」
「はい。腫れは数日で治まるだろうと」
「そうか。しかし女性の顔を殴るなんて……」
怒りをにじませるフランツに、シルヴィアはゆるくほほえんだ。
「命があっただけ、幸運でした」
「シルヴィア」
リーゼロッテがシルヴィアの空いている方の手を取り、その両手で握りしめた。
「本当に、本当に良かったわ」
「リーゼロッテ様……」
「それでね、さっきフランツ様ともお話したのだけれど。シルヴィア、あなたは休養するべきよ」
「……え?」
それは思いもよらぬ提案だった。シルヴィアが瞠目すると、リーゼロッテは手を離し、そのかわりに力強くうなずいた。
「結婚式まで、まだ四カ月あるもの。だから、シルヴィアも少し体を休めに、家に戻ってくるといいわ。幸いにも、シルヴィアの実家まではここから近いでしょう?」
シルヴィアの仮の身分であるエイムズ家までは、確かに馬車で一日走れば行ける距離だ。
「あの、大変ありがたいお言葉なのですが、そんなことをしては他の侍女たちにも迷惑が掛かりますし……」
シルヴィアがそう答えると、リーゼロッテの横でフランツが爽やかにほほえんだ。
「大丈夫。君の代わりは、私が選んできちんとした人間をつけるよ。気にせずゆっくり休むといい」
「フランツ様……」
そこでシルヴィアは考えた。
『式の前日までに、理由をつけてレイを国へ戻すこと』
そう受けた指示を実行するためには、願ってもない提案だった。
シルヴィアと一緒になら、今レイは何の疑いもなくハルヴィットに戻ることができる。式までにはまだ時間はあるが、これほど楽に実行できるのなら、今戻さない手はない。アダムに疑われているのなら、なおさらだ。
もしレイに、タイスでの任務が残っているというのなら、シルヴィアがこちらに戻ってきてから代わりに片づけるしかない。
シルヴィアはリーゼロッテとフランツの二人に向き直った。
「……それでは、お言葉に甘えさせてもらってもよろしいでしょうか」
「もちろんよ」
「それから、大変厚かましいお願いなのですが……」
「いいのよ、シルヴィア。何でも言って」
「もしよろしければ、道中不安ですので、レイに付き添いをお願いしたいのです。彼は従兄ですので、我が家も良く知っていますので……」
そんなお願いをして怪しまれないだろうかと、内心で心配しながらシルヴィアは二人の反応を見ていた。
しかし二人は疑う様子などまったくなく、あっさりと了承してくれた。
「そうね。護衛はつけないと危険だわ」
「近衛兵の補充も我が家からしておくから、安心して戻るといい」
にこにこと和やかにほほえむ二人に、シルヴィアは頬を押さえていたタオルを外し、両手をそろえて深々と頭を下げた。
「大変なご迷惑をおかけして、申し訳ございません」
「シルヴィアったら、いいのよ。私から言い出したことなのだから」
シルヴィアの両肩を持って姿勢を直させてから、リーゼロッテはシルヴィアのタオルを再び頬に当ててくれた。それからリーゼロッテは、フランツに向き直る。
「あの、フランツ様。シルヴィアと二人で少し話があるのです。よろしいですか?」
その言葉に、驚いたのはシルヴィアだった。
もちろんいいよ、と了承して部屋を出たフランツを見送って、シルヴィアはリーゼロッテと二人きりになる。
シルヴィアを真っすぐに見つめて、リーゼロッテはいつになく真剣なまなざしを向けてきた。
「シルヴィア、本当のことを言って」
「…………」
本当のこと、という言葉にどきりとする。リーゼロッテは何を知ったというのだろうか。シルヴィアは言葉も出せずに、こくりと息をのみこんだ。
シルヴィアの背中に冷たい汗が流れたとき、リーゼロッテは信じられないことを口にした。
「あなたとレイは、本当は恋人同士じゃないの?」
「……はい?」
リーゼロッテが何を言っているのか、シルヴィアはすぐに理解することができなかった。
「戻ってきた二人を見ていた侍女たちが言っていたの。レイがあなたをとても大事そうに連れ帰ってきたって」
何を詰問されるのかと構えていたのに、シルヴィアは内心で脱力した。
しかし、とにかく自分の素性が問ただされているのではないことが分かって、ほっと安堵していたシルヴィアは、ぐいっと近づいてきたリーゼロッテにはっとして、慌てて答えた。
「……レイはただ、怪我をした私を心配してくれただけだと思います」
「どうでもいい相手のことをそんなに心配したりはしないわ」
「親族ですので、確かにどうでもいい相手ではないと思いますが……」
どんどん距離を詰めてくるリーゼロッテに、シルヴィアは思わず一歩あとずさった。
「シルヴィア、あなたはレイをどう思っているの?」
突然の質問に、シルヴィアは本気で困惑していた。
「もちろん、とても大切です。従兄ですから……」
それ以外何と答えていいのか分からなくて、戸惑うばかりのシルヴィアに、リーゼロッテは体を離してため息をつくと、独り言のように小さな声でぽつりとつぶやいた。
「レイ、かわいそう」
「え?」
「何でもないわ」
何と言われたか聞き取れなかったシルヴィアに、リーゼロッテは気を取り直したような表情で話を変えた。
「ねえ。私が前に言った事を覚えてる? レイが恋人といるところなんて見たくないって言ったこと」
「もちろん、覚えています」
すると、リーゼロッテはくすりと笑った。
「でもね、シルヴィアならいいなって思ったの」
「ええ?」
突然何を言い出すのかと、シルヴィアは返す言葉を失ってしまう。リーゼロッテはこちらの様子などお構いなしだ。
「最近、私も随分フランツ様と二人きりで話すようになったでしょう?」
「はい」
「今日も、このロッシュフォードで海が一番美しく見える場所まで連れて行ってくれたの。フランツ様は本当に優しくて、私きっと幸せになれると思う」
「はい」
「だから、そんな風に思ってから言うなんて、我ながらずるいなって思うけど……」
リーゼロッテは叱られた子供のような顔でそう前置きをしてから、改めてその大きな瞳でシルヴィアをじっと見つめた。
「私、レイとシルヴィアを応援したいなと思ったの。二人には、幸せになって欲しいから」
その言葉に、シルヴィアは鈍器で殴られたような衝撃を受けていた。
リーゼロッテから幸せを願われているという事実に、シルヴィアは信じられないように首を横に振った。
「リーゼロッテ様、やめてください。私は、あなたを……」
思わず口から出た言葉を、シルヴィアは慌てて飲み込んだ。
「どうしたの?」
「いえ……」
言葉を堪えると、代わりに目頭が熱くなった。
こうしてただ幸せを願われていながら、シルヴィアはリーゼロッテをだまし、その幸せを壊すのだ。
(……でも、私には何も言えない。あやまることなんて、できない)
言えるはずもなかった。あやまって何になるというのだろう。どんな理由があったとしても、自分の都合でだまし、傷つけ、そのくせゆるしを請うて楽になることなどできるはずがなかった。
「……私も、リーゼロッテ様の幸せをいつも願っています。離れていても、ずっと」
ただそれだけは、心からのシルヴィアの願いだった。今のシルヴィアにとって唯一の真実だが、やがてこの思いも、信じてもらうことはできなくなるだろう。
「やだ。なあに、急にそんな風に。言っておくけど、お休みは少しの間だけよ? 戻ってきてくれなきゃ、困るわ」
「……もちろん、戻ってきます。お二人のご結婚式を、この目で見届けたいのです」
「良かった。約束よ」
うれしそうに顔をほころばせたリーゼロッテの愛らしさに、シルヴィアはたまらずうつむいた。
頬にあるタオルを力任せに握りしめる。
「シルヴィア? 痛いの?」
「……いいえ。私なら、大丈夫です」
今は、それだけ答えるので精一杯だった。