菫色のリボン
レイが来てくれたのは、あの時逃げた侍女たちが、すぐに助けを呼んでくれたおかげだった。
屋敷に戻る馬車までは、レイがシルヴィアを運んでくれた。
激しい動揺も収まって、シルヴィアはすっかり平生の自分を取り戻していた。しかしまだ監視されている可能性は残っている。ここは物取りに襲われて命を失いかけた、か弱い女性を演じた方が良いだろうと考えて、シルヴィアは抵抗せずにレイに抱かれて馬車に乗った。
馬車が動き出して二人きりになると、シルヴィアは安堵したように深く深く息をついた。
「レイ、もう大丈夫よ。離して」
さっきからずっとシルヴィアの体を抱いたままのレイから、シルヴィアはようやく体を離した。
レイはまだ心配そうに、シルヴィアの顔をのぞきこんでくる。
シルヴィアが顔にあてたハンカチは、レイのものだ。口元と頬を覆っていたそれを離して確かめると、ハンカチは赤黒く汚れてしまっていた。
「……ごめんなさい。ハンカチ、だめにしてしまったわ」
「そんなこと、いいから」
レイは眉をひそめて、シルヴィアの腫れを確かめる。
「……あの男、絶対に許さない。探し出して償わせる」
激しい怒気を剥き出しにしてつぶやいたレイに、シルヴィアは小さく首を横に振った。
「いいのよ、レイ。本当は、殴られる前にできることはいくらでもあったの。でも、わざとしなかった。あの男は、アダムが差し向けた男だと思ったから」
「アダムが?」
「ええ。鍛えられた軍人だったの」
「……つまり、君の反応を見るために?」
「そうだと思うわ。だから結局、殺さなかった。殺すふりをしただけだったのよ」
するとレイは、信じられないという様子で首を振った。
「それは結果的にそうだっただけだ。もし本当に殺されてしまったら? わざと何もしなかったなんて、そんなことはもう絶対にしないでくれ」
「だって、これ以上疑われるようなことはできないわ。計画に支障がでては――」
「シルヴィア」
レイは強い口調でシルヴィアの言葉をさえぎった。まなざしはシルヴィアに訴えかけるようだった。
「計画なら、失敗してもやり直せばいい。君のほうが大事だ、ずっと」
「レイ……」
シルヴィアは思わず、持っていたハンカチをぎゅっと握りしめた。
「心配かけて、本当にごめんなさい」
「約束してくれ。自分の身を守ることを優先するって」
「……分かったわ。レイ、ありがとう」
素直に答えると、レイは安心したようにうなずいて、いつもの表情に戻った。
「それにしても、偶然近くまで来ていて、良かったよ」
レイの言葉に、そういえば、とシルヴィアは今更ながら疑問に思った。
「あなたも町に来ていたのね。どうしたの?」
その質問に、レイは小さく息をついた。
「ハルヴィットを出発する前から、リーゼロッテが新しい髪飾りをしていただろ?」
「よく気がついたわね。フランツ様が贈ったものよ」
「それはみんな知ってる。でもあれは、君が選んだものだろ?」
「……どうして分かったの?」
「分かるよ。君が好きそうなデザインだ」
そう言われて、シルヴィアは驚く。
リーゼロッテの好みそうなデザインを選んだつもりだった。レイから言われるまで、自分自身の好みなんて考えてもみなかった。
「私、王女が好きそうなものを選んだつもりだったのよ。……でも、言われてみれば、そうかもしれない」
つぶやいて、シルヴィアは分かってしまった。
シルヴィアだって本当は、可愛らしいものが好きなのだ。それを手にして、無邪気に喜ぶ。そんな幸せな少女時代を失ってしまったから、自分でも忘れてしまっていただけで。
「それを他の女のために選ぶなんてね。前にも言ったと思うけど、君は本当に馬鹿だよ」
「……だって、頼まれたから」
「今日は俺も、非番だったんだ」
と、レイは上着のポケットから何かを取りだした。シルヴィアの手をとって、汚れたハンカチと引換に、それを乗せた。
「……何?」
「開けて」
ごく簡単な包みを開くと、中に入っていたのは、小さな髪飾りだった。
菫色のリボンでつくられたコサージュは、ちょうどシルヴィアの手に収まるくらいのサイズだ。
「……これ」
「それしか買えなかった」
レイは苦々しく言った。
レイもシルヴィアも、必要最低限の金しか持っていなかった。給金はすべて、わずかでも足しになるようにと、レオンハルトのいるライズ辺境伯領へ納めている。
それが分かっているから、シルヴィアの胸は締め付けられるように苦しくなった。
「……でも、私には返せるものが何もないの」
手にした髪飾りをじっと見つめて、ぽつりとこぼしたシルヴィアに、レイは首を横に振った。
「シルヴィア、俺は見返りが欲しいわけじゃない。君が欲しいか欲しくないか、それだけ言ってくれればいい」
「……欲しいわ」
顔を上げて消えそうな声で答えると、レイはほほえんだ。
「あげるよ」
シルヴィアは、もう一度小さな花に視線を落とす。自然と笑みがこぼれた。
「菫色ね」
「君の瞳と同じだったから」
「うん……」
見ていると、とてもなつかしいことを思い出した。
「私、ずっと昔に、これと同じような菫色のリボンを持っていたの。とても大事にしていたんだけど、無くなってしまって……」
あの日、母がほどいてくれたリボンは、屋敷とともに焼けてしまっただろう。
自分でも気づかないうちに、シルヴィアの頬に透明なものが伝った。悲しみは今も胸にあって、決して消えることはないけれど、こうしてまた思い出せる。痛みと一緒であっても。
「レイ、ありがとう。すごくうれしい」
「いいよ」
レイはそれ以上何も言わず、柔らかな笑みを口元に浮かべた。