疑い
「アダム」
フランツの驚いたような声に、その男はシルヴィアとレイから視線を外してフランツの方へ向き直った。
「おかえりなさいませ、フランツ様」
「どうしてここに?」
「旦那様のご命令で参りました。結婚式の日まで、フランツ様をお守りするように仰せつかっております」
「……何だって?」
フランツは眉根を寄せる。アダムと呼ばれた男は平然と言った。
「リーゼロッテ王女殿下の従者の中に、刺客が紛れ込んでいないとも限りませんので」
「馬鹿なことを。アダム、口を慎め」
フランツはきつい口調で言ったが、リーゼロッテから不安そうなまなざしを向けられているのに気がついて、慌てて表情を戻した。
「とにかく、中へ入ろう。彼も含めて、この家の皆を紹介するよ」
フランツとともに進むリーゼロッテの後ろに付き従いながら、シルヴィアは他の侍女たちと歩みを合わせた。目立たないように、彼女たちと同じようにうつむきがちに進む。内心の動揺はきれいに隠せていたはずだ。
レイたち近衛兵と離れ、シルヴィアはリーゼロッテとともに、スペンサー家を取り仕切る使用人の紹介を受け、また邸宅内を案内された。
先ほどの男は、アダム・ノールといった。
フランツの父、タイス宰相であるエリオット・スペンサーの部下で、タイスの軍人であるということだった。
アダムの目的は、先ほど彼自身がはっきりと宣言したとおりだ。
シルヴィアは、すべての行動において、慎重に慎重を重ねる必要があった。時折感じるアダムの視線を、いつも気づかないふりをしてやり過ごす。
ただリーゼロッテの世話だけをしていれば良いのだが、そういうわけにもいかなかった。
ロッシュフォードに来て一週間がたった。
こちらにきて始めて与えられた休日に、シルヴィアはハルヴィットからともにきた侍女たち二人と連れだって、町へ繰り出すことになった。
先代のロッシュフォード伯夫人、つまりフランツの母がこちらに住んでいる時に愛用していたという仕立屋に入ると、シルヴィア以外の二人は、店主とともに店に並べられた美しいドレスや生地を見ながら、黄色い声を上げてはしゃいでいた。
彼女たちから少し離れてシルヴィアは、店の端で黙々と生地を裁断している男性に声を掛けた。
「少し伺いたいのだけれど、良いかしら」
「……申し訳ありません、お嬢様。私では何も分かりませんので、店主に聞いていただけますか」
「いいえ、職人のあなたの方がきっと詳しいと思うわ」
と、シルヴィアは髪を耳にかけて、耳たぶにあったイヤリングを外す。
小さなサファイアと、その下には羽の形に切り出した乳白色の夜光貝が揺れていた。
「金具が取れかけているの。腕の良い細工師を知らないかしら?」
差し出したイヤリングを、裁断師は顔を近づけてまじまじと見つめた。
「ああ……。これは、確かに」
それから机の端に乱雑に広げてあった紙とペンをとると、それにさらさらと何かを書き記した。
「職人組合で知り合った腕のいい人間がいますので、紹介いたしますよ。場所はこちらになります」
差し出された紙を受取って、シルヴィアは目を走らせる。それからそれを、すぐに裁断師の手に戻した。
「お分かりになりました?」
「ええ、大丈夫よ。助かったわ、ありがとう」
「いいえ、お嬢様。道中どうかお気をつけて」
ちょうどその時、一緒に来た侍女たちも店主との話を終えたようだ。
「シルヴィアは新しいドレスを作らないの?」
「ハルヴィットの流行とは少し違っているみたい。これはこれですてきよ」
楽しそうに声を弾ませている二人に、シルヴィアはにっこりとほほえんだ。
「私はいいの。二人のドレス、楽しみね。良いものができたら、リーゼロッテ様にもご紹介できるわね」
それから店を後にして、すぐ前に停車してあった馬車へと向かう。
シルヴィアは先ほど見たメモの内容を頭の中で繰り返していた。
『式の前日までに、理由をつけてレイを国へ戻すこと』
裁断師は、以前からタイスに潜入している連絡員だ。
そしてシルヴィアのイヤリングは、シルヴィアが仲間だという証だった。サファイアと白い羽は、紺碧に白い大鷲が翼を広げる、オルデンベルグの紋章を意味していた。
シルヴィアの真の主、レオンハルト・オルデンベルグが、レイを必要としているようだ。
リーゼロッテとフランツの結婚式には、ハルヴィットから兄のゲオルクが参列することになっていた。
この婚姻は、両国が互いに相手国での影響力を増したいという思惑がせめぎ合って成立したものだ。フランツはタイスでの将来が約束された大貴族だとはいえ、王族ではないためタイス国王の出席はない。そのために、リーゼロッテの父も自分の代わりにゲオルクをタイスに寄越すのだ。自分の地位は決してタイス国王の下ではないという意志をあらわすために。
ゲオルクは式の後、タイス国王の待つ王宮へ向かう予定となっている。その道の途中で、オルデンベルグ派の兵たちが襲撃することが決まっていた。
同時に、ハルヴィットではレオンハルトが城を掌握することになっている。ゲオルクは我が身のために、軍の半数近くをタイス国境まで移動させるという情報が既にある。ジーク・クラナッハのいる王都はその分手薄になるだろう。
(レオンハルト様は、カルヴァリースにレイを連れていく気なの?)
侍女たちが馬車に乗りこんでいくのを後ろで待ちながら、シルヴィアは内心でそのことばかりを考えていた。
(理由をつけろって言うけど、そんな都合のいい理由なんて……)
どういう理由ならばリーゼロッテに納得してもらえるのだろうか。すぐには思いつきそうになくて、シルヴィアは困っていた。
そのせいで、シルヴィアは油断していたのだろう。
何の気配もなく、突然後ろから体を羽交い絞めにされる。
「……っ!!」
男の腕が、シルヴィアの首元と両腕を強く締め付けていた。そのまま体を引きずられながら、シルヴィアは驚きのあまり声をあげることもできなかった。
代わりに、侍女たち二人が馬車の中から上げた悲鳴が、辺りに響き渡った。