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恋じゃない

 いつもなら、こんな風に視線を逸らさずに見つめることなんて、決してしない。

 まなざしは、胸の奥底の感情を容易にさらけ出してしまうから。

 けれど今だけは、誰からどう見られても大丈夫なはずだと、シルヴィアは思っていた。


 貴重な白い大理石で造られた大回廊を埋め尽くす人々は皆、宝石や羽毛、獣の皮などで装飾された美しい仮面を身につけている。いくつもあるシャンデリアのガラスドロップが灯火を乱反射させ、空間を一層幻想的に演出していた。

 この舞踏会に相応しいように、シルヴィアも亜麻色の髪をアップにし、瞳と同じ淡い菫色をした蝶の仮面とドレスを身につけていた。


 そんなに熱心に誰を見ているのかと問われたら、シルヴィアははっきりと答えることができる。

 ただ自分の主を見守っているだけなのだと。この国――ハルヴィットの王女、リーゼロッテ・クラナッハを。


 今年十六歳になるリーゼロッテに、四歳年上のシルヴィアは侍女として仕えていた。

 リーゼロッテにはじめて会った時からもう二年。あどけなさを残していた少女は、大輪の花のように美しく成長していた。艶やかに緩く波打つ髪は明るい金色で、ヘイゼルブラウンの瞳はきらきらと輝いている。なにより彼女は生き生きとした魅力に満ちあふれていた。


 リーゼロッテと寄り添って踊るのは、隣国タイスのロッシュフォード伯フランツ・スペンサーだ。二十六歳になるこの青年は、タイス宰相の嫡男である。敏腕な父に似て非常に優秀であるという噂は、以前からハルヴィットまで届いていた。


 華やかな会場のきらめきに彩られ、二人は輝きを増していた。

 リーゼロッテとフランツの婚約は、つい数週間前に発表されたばかりだ。


 リーゼロッテを見守るふりをしながら、シルヴィアの視線はずっとフランツの姿を追い続けていた。

 今夜のフランツは、目元だけを隠す黒い仮面を身につけていた。繊細な銀の細工が施され、右サイドには純白の羽飾りがついている。

 深みのある赤褐色の髪が、羽飾りと一緒にさらりと揺れる。仮面の下には、清涼感のある澄んだ空色の瞳があることを、シルヴィアは知っていた。


 フランツがリーゼロッテに柔和にほほえんだのを見て、シルヴィアの心にすうっと冷たい風が吹き抜けた。ひしひしと締め付けられるような痛み。痛むくらいなら見なければいいのに、シルヴィアはどうしても目が離せなかった。


(……違う)


 シルヴィアは心の中でつぶやいた。


(私はあの人に助けられた。だから感謝しているだけ)


 誰に問われたわけでもないのに、なぜこうやって言い訳をするのか自分でも分からない。

 けれどシルヴィアはフランツの姿を見る度に、いつも自分に言い聞かせるのだ。


(違う、これは恋じゃない)


 何度も何度も同じ言葉を頭の中で繰り返して、シルヴィアはおそらく上の空になっていた。

 だから自分の視界を遮るように、すっと一人の男性が立ちはだかったのに、寸前まで気が付かなかった。


 驚くと同時に、その見事なプラチナブロンドに、シルヴィアは一瞬目を奪われた。

 長身の男性は、シルヴィアを見下ろしている。いや、正確にはシルヴィアを見ているかどうか、定かではない。彼は美しい前髪が流れるその下に、顔全体を隠す真っ白い仮面をつけていた。目元の露出もわずかなものだから、視線が正確にどこを向いているのかが分からない。


 もしかしたら、人違いをしているのかもしれない。そう考えて、シルヴィアは視線をさっと左右に動かした。しかし、あえて人から離れて壁の花に徹していたシルヴィアの周囲には、やはり自分以外の誰もいなかった。


(……やっぱり、私?)


 シルヴィアは眉をひそめてもう一度男性を見上げる。

 と、彼は動き出し、その長い足でシルヴィアとの距離を一瞬で縮めてきた。

 シルヴィアが声をあげる暇も与えず、彼はシルヴィアの右手をとった。


 とっさに振りほどこうとするが、できなかった。しっかりと握られた手に一瞬視線を落として、シルヴィアはあらためて彼を見る。目立ちたくはなかったので、大きな声は上げなかった。


「……どうか手を、離していただけませんか」

「…………」

「あの」


 その時、会場の音楽が新しいものに切り替わった。


 すると突然、彼はつかんでいたシルヴィアの手を引き、強引に自分の方へと引き寄せていた。


「……!!」


 目を見開いたシルヴィアの左脇から背中を抱く。それからシルヴィアの手を、手のひらが重なるように持ちなおした。そして次の瞬間、シルヴィアの体は動き出していた。


 男性の肩越しに見える世界が、くるりくるりと動いていく。


(……何!? 踊りだした?)


 同意を得るどころか誘いの言葉すらなく、シルヴィアは強引にステップを踏まされて大回廊の中央へと進み出ていく。


 驚きが怒りに変わる前に、しかしシルヴィアは気がついた。


 顔はすべて覆ってしまっているが、こう密着しては体つきまでは隠しようがない。抜群に均整の取れたしなやかな体躯。絵画の中でしか見たことはないが、豹のようだとかつてシルヴィアは思ったことがあったのだ。


 シルヴィアは白い仮面を正面からにらんだ。


「……レイ。あなたね」


 迷惑そうな声色のまま、彼にだけ聞こえるように言った。シルヴィアの声は、音楽とざわめきにかき消される。


「……なんだ、もう分かったのか。面白くない」


 仮面のせいで少しくぐもってはいるが、聞きなれた声が返ってきて、シルヴィアは息をついた。


「面白くないのは私の方よ。突然こんなことしないで。あなたと分からなければ、刺していたところよ」

「今日は一段と着飾っているけれど、そのアクセサリーの中には毒でも仕込んであるのかな?」

「あなたを気絶させるくらいの量ならあるわ」

「怖いな」


 仮面の向こうでくすりと笑った気配がして、シルヴィアも少し表情を緩めた。


「その髪はどうしたの?」


 レイの髪は、いつもは艶やかな漆黒だ。この人目をひくプラチナブロンドはどうしたのだろう。


「趣向を凝らして変えてみた。似合うだろ?」

「似合うも何も、仮面で分からないわよ」

「確かに」

「それより、何のつもり? ダンスなんて――」

「君はずっと見ていた。あの男を」


 言葉を遮られて、シルヴィアは目を小さく見開いた。こくりと息を呑んだのが、レイにも分かってしまっただろうか。


「……何を言うのよ、突然」

「フランツ・スペンサー」


 今度こそシルヴィアは心臓を上下させた。違う、リーゼロッテを見守っていただけなのだと、用意していた答えを口にすることができなかった。相手が他ならぬレイだったからだ。


「隠せると思った? この俺に」

「…………」


 否と分かっているから、沈黙するしかなかった。


 レイ・リセルは、鍛え上げられた観察眼を持っていた。それを知っているのは、シルヴィアが彼と出会って、もう七年になるからだ。はじめて会ったのはシルヴィアが十三歳の時、レイが十四歳の時だった。


 何も言わないままのシルヴィアに、レイはため息を漏らした。


「君は、本当に馬鹿だ」


 シルヴィアは反論することができない。

 レイはシルヴィアの背中に回す腕に力を込めた。いっそう近く抱き寄せられて、耳元でささやかれた言葉に、シルヴィアの肌がぞくりと粟立った。


「シルヴィア、覚えておいて。もしも計画の邪魔になれば、あの男は、俺が殺す」


 ちょうどその時、演奏が再び切り替わった。何も答えられずにいたシルヴィアの手を引いて、レイは会場を離れる。


 二人は人気のないテラスに場所を移していた。夏の終わりの涼しい夜風が頬をなでる。対照的に、レイの手は温かかった。体を強張らせたシルヴィアの手が冷たかったから、余計にそう感じたのかもしれない。


「……レイ、手を離して」


 やっと声を出すと、レイは振り返った。


「どうして、あの男を?」

「…………」


 レイがいつまでも離してくれない手を、シルヴィアは無理に振り払った。


「あなたには、関係のないことよ」


 わざと突き放すようにシルヴィアが答える。レイはゆっくりと仮面をとった。

 仮面のせいではっきりわからなかったレイの深い群青色の瞳があらわになる。ちょうどこんな月の夜のように、紫みを帯びた、深く濃い青色だった。

 月光に照らされて、プラチナブロンドが淡く輝いた。いつもの漆黒の髪より、迫力が増している。レイは美しかった。こわいくらいに。


「あいつはタイスの人間で、リーゼロッテの婚約者だ」


 レイの瞳の奥に、理解できない苛立ちと、同時に悲しみが見てとれた。レイは心配しているのだ。それが分かるから、シルヴィアは小さく息をついた。


「……レイ、あなたはきっと勘違いをしているわ」

「勘違い? あんなにも切なげにあの男を見つめておいて?」

「だからそれが勘違いよ。私はそんな風に見てない。ただあの人には、昔会ったことがあるだけ」

「昔?」

「あの人には、一度助けられたことがあるの。あの日、あの場所で」


 言いながら、シルヴィアは視線を落とした。

 それはシルヴィアが、すべてを失った日だった。

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