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理玖の腕時計のデジタル表示は、十時五十三分十七秒を示していた。
化学実験室で「真空バズーカ」の実験が行われる時刻の六分四十三秒まえである。実際、十一時きっかりに始まることはないだろう。誤差は必ず生じるものだ。
校内で適当に時間を潰してきた理玖と楓馬は、部屋の隅に並んで立っていた。
見回すと、複数の机を跨ぐようにして置かれた「真空バズーカ」を中心に、中学生と思われる男子グループと親子たちが群れを成していた。化学実験室は机や機材などで狭まっているので、人で詰まっている。
「……そういえば、化学科が新設されるんだったね」唐突に、理玖が話しだす。
「らしいなぁ。待てよ……だとしたら、略称は何になるんだろう?」
高専におけるそれぞれの学科(またはコース)は、略称で呼ばれることが多い。
例えば、ここ立花高専には、「機械工学科」、「電気工学科」、「制御情報工学科」、「建設工学科」の四つの学科があり、それぞれ、機械工学科がMachine(機械)の頭文字でM、電気工学科がElectricity(電気)の頭文字でE、制御情報工学科がSystemの頭文字でS、建設工学科がConstruction(建設)の頭文字でCとなっている。
「えっと、化学って英語で何だったけ」楓馬が訊く。
「Chemistry。頭文字はC」
「あぁ……、じゃ、俺ら建設と被るのか」
「だから、聞いた話では、Zになるらしいよ」
「Zぉ? ももクロ? それとも――」
「『材料化学』のZらしい」
「材料? マジ? 日本語かよ」
「いや、ドイツ語の〝zutat〟から来ているとか」
「つーたっと? なんそれ」
「『材料』って意味らしい。頭文字がZ。こじつけた感じはあるけどいいんじゃないかな」
「ほへぇ、なるほどねぇ」
「聞いたところによると、Aになる可能性もあったとかなんとか」
「A?」
「Alchemy……錬金術、らしい」
「おぉ、そっちのほうがかっこいいじゃんか、ハガレンみたいでさ。いやでも、Zも捨てがたいな……。『私たち高専ヒロイン! 化学工学科~Z!』ってできるし。なぁ?」
「摩擦係数ゼロの華麗な滑り……」
「えっ?」
理玖が冷静な突っ込みを入れたところで、白衣を身に纏った男子学生が装置の前に出てきた。寝癖なのか、髪の毛がはねている。隣には、同じような白衣を着た女子学生がいた。助手だろうか、と理玖は思う。
「……え、と。皆さん、こんにちは。化学部、です」男子学生が話しだす。「これから、この……『真空バズーカ』の実演をしようと、思います」
それから、彼はバズーカの説明を始めた。内容は、理玖が楓馬に説明したものとほぼ同様のものだった。砲身には塩化ビニル製のパイプが用いられており、弾丸にはゴルフボールを使用するという。そして、バズーカが狙うのは、335ミリリットルのお茶缶だった。材質はスチール。簡単に握り潰すことができないほうの缶だ。
学生は、その缶を装置の発射口から二十センチメートルほどの位置に置いた。缶の後ろにはウレタン製の緩衝材を敷き詰めた段ボール箱が、横にして置かれている。そして彼は、段ボールで作られた大きめの箱を上から被せて、缶と緩衝剤の二つを覆った。ゴルフボールが命中した際、缶の中身や破片などが飛散するのを防ぐためだろう。
「では……今から、実験を始めたいと……思います」
学生は、横倒しの円筒のような装置の前に足を進めた。その装置から伸びるホースは、バズーカの砲身へと続いている。
「これが、真空ポンプです。これを使って、空気を抜いていきます……」
学生は真空ポンプのスイッチを入れた。直後、振動するような音が響き渡る。
「今、この筒の中の空気を抜いています……」学生は、真空ポンプに据え付けられたブルドン管圧力計を指差した。圧力計の針は、ゆっくりと左へ回転している。「このメータは、中の空気圧……まあ、空気の量を示しています」
三十秒ほど経った頃、針の振れが収まった。筒の中はほぼ真空の状態になったようだ。
それを確認した学生は、ポンプのスイッチを切り、発射口と反対側にいるもう一人の白衣の女子学生に顔を向ける。すると彼女は、ゆっくりと頷いた。
「それじゃ……、いきます。音がすごいと思うんで、気をつけてください」
男子学生の忠告に観衆は少しざわめくが、それはすぐに止んだ。耳を塞ぐ子どもや、装置から離れようとする中学生もいた。
「では、いきまーす」女子学生は片手を上げる。「三、二、一……」
彼女は、プラスチック製の下敷きを、叩くようにして弾き飛ばした。
瞬間、破裂音が空気を震わす。
その音に、観衆はかなり驚いていた。予想を超える大きな音だったのだろう。
「うっひゃあ……」楓馬は、理玖の方を向いて歯を見せる。「すんげぇ音。想像以上」
「果たして、スチール缶の運命や如何に……」
男子学生は、缶を覆っていた段ボールを引き上げる。そして、ゴルフボールが命中したはずのスチール缶を持ち上げた。
おぉ、というどよめきが観衆から洩れる。
スチール缶の中央には裂けたような穴が開き、そこから黄がかった液体が零れていた。缶は全体的に「く」の字に曲がっていて、バズーカの威力が窺えた。
「人の躰に当ったらひとたまりもないね」理玖は冷静な口調で言う。「頭に当たれば、木端微塵なんじゃないかな」
「怖いこと言うなよ……」楓馬は口を曲げた。
「……このように、真空バズーカには、かなりの威力があります」男子学生は、歪んだ缶を近くの机に置いた。近くにいた小学生たちは、その缶を食い入るように見つめ始めた。
「それでは……、こちらの動画も、合わせてご覧ください……」
男子学生がノートパソコンのキーボードを叩くと、白のスクリーンに、画面が投影された。ウィンドウに、複数の動画ファイルが表示されている。そのうちの一つをクリックすると、動画が再生され始めた。
学校の運動場のような場所が映し出され、実験室にあるのと似たような装置、真空バズーカがそこにあった。装置の全体図が映ったあと、カメラはズームアウトした。
「えー……こちらの動画は、同じような装置での、被射出体の初速度……あ、速さを計測……いえ、測る実験です。最高時速は、五百キロメートル毎時……、あ、えーと、リニアモーターカーと同じくらいのスピードを出すことができます……」
説明の対象に小中学生が多い以上、難解な表現は避け、なるべく簡素な言葉に言い換える必要があるので、男子学生は苦労しているようだった。
そのあと、スクリーン上ではバズーカの発射が行われ、計測された速度が、デジタルの数字で表されていた。男子学生が言ったのと同じくらいの数字が表示されている。
動画の再生が終わると、男子学生は観衆に躰を向けた。
「実験は、以上です……。ありがとうございました」
学生が一礼をすると、どこからとなく、拍手が湧き上がった。予想外の出来事に、男子学生は少し照れているように見えた。
実験を見終えた観衆の大半は、化学実験室から出ていこうとしていた。出入り口では、別の男子学生が、幼い子たちに浮く風船を配っている。そのせいで出入り口が詰まっているので、理玖と楓馬はその場で少し待つことにした。
少しして、白衣を着た女学生が、二人の方へ近づいてきた。
「鎗戸君、見に来てたんだね」楓馬に声を掛けた彼女は、さきほどの実験の手伝いをしていた女子学生だった。化学部の一員なのだろう。
「あぁ、うん。暇だったし。いいものを見せてもらったよ」
「でしょ?」女学生の片方の眉が吊り上がる。「今年はこれが目玉なんだぁ」
「こんなに面白いものがあるなら、言ってくれればよかったのになぁ……」
「ごめん、別に言うほどのものじゃないかな、って思ってたんだよ」
「ま、気にしてないけど……」そこまで言って、楓馬は、理玖が会話に入って来られていないのに気付いた。「あぁ、理玖。こいつは俺と同じクラスの水本だよ」
「勝占理玖君、だね? 鎗戸君からいろいろ聞いてるよ」
いろいろ、とは何だろうか? 理玖は疑問に思ったが、今は口に出さないでおいた。別にやましいことがあるわけでも無いし、おそらくそれは、使い古された表現なのだろう。
「どうも」理玖は小さく頷いた。
「見に来てくれて、ありがとね」水本は口元を少し綻ばせている。「それで……どうだった? この実験」
「あー、そうだね……、踏んでも凹もうとしないスチール缶が、簡単に凹んだのには驚いたかな。ただ、果物、例えばスイカなんかを狙えば、もっと面白くなったかもしれない」
「そういうのもいいんじゃないか、って思ったんだけどね……。後片付けが大変になるし、この時期じゃあんまり売ってないから、やめたんだよ。文化祭が夏ならできただろうけど」
「あ、俺もスイカ見たかったなぁ」楓馬は残念そうに呟く。
「機会があれば、やってみる。そのときは言うよ」
「そうそう、水本は、ずっとここにいるの?」楓馬が訊いた。
「うん、実験室に張りつきっぱなしかな。でも、昼過ぎには休憩するかも」
「そう。なら、模擬店の手伝いは出来ないねぇ」
「手伝いは出来ないけど、買いに行くくらいならできるよ?」
「別に、無理に来なくていいよ」楓馬は顔の前で手を振った。「まぁ、売上に貢献してくれるならいいけど」
「そういえば……、うちのクラス、何作ってたっけ?」
「あれ、何だったっけぇ。あの、ちょっと響きがエロいやつ……」
「チュロスじゃない?」理玖が横から言う。「エロくもなんともないような気がするけど」
「そうそう、それそれ。チュロスだよ」
「チュロスかぁ……。じゃ、3Mは何作ってるの?」水本は理玖を見る。
「クレープを作ってる」
「そうなんだ……、甘いものばっかりだね、太りそう……。うーん、またお昼になったら見に行くよ。そうそう、場所を聞いてなかった。どこでやってるの?」
「機械棟の三階だよ」楓馬が答える。「3Cと3Mは、隣同士でやってるんだ」
「三階、かぁ……」
「しかも、一番奥の教室なんだぜ」
「それは悲惨……。ま、場所はくじ引きで決まるし仕方ないんじゃない?」
「まぁ、ねぇ……」
「あぁ、宣伝すればいいじゃん」水本は目を開く。「女装すればいいよ。ここでいるとさ、女装したり着ぐるみを着たりした男子が呼び込みしてるのがよく見えるんだ。めっちゃ似合ってる人もいるし、目も引きつけられるし、やってみなよ。何なら、寮から制服持ってきて貸してあげるし」
「えぇー」楓馬は表情を歪ませた。「別にいいよぉ、俺は」
「あ、ウィッグも要るかな。確か、後輩が持ってたはず……。それに、お化粧もして……ほら、完璧ぃ!」
「誰もやるとは言ってないじゃん!」楓馬は唇を突き出して抗弁する。「そんな醜態、晒せないよぉ……。女装癖があるなんて知られたら、桜ちゃんに嫌われちゃう……」
「桜ちゃんなんて、どうでもいいでしょう?」
「どうでもよくないよ!」
楓馬が叫んだとき、奥の方から、「水本ぉ」という声が聞こえた。
「あっ」水本は一度振り返ると、すぐ元に直る。「ごめん、呼ばれてるから、行ってくるね。それじゃ!」
彼女は、机の合間を縫って声の主の方へと向かっていった。
「ったくぅ、どいつもこいつも……」楓馬は唇を突き出して言う。
「まぁまぁ。怒ったって何がどうなるわけでもないよ」
「じゃあさ、理玖は女装したいわけぇ?」
「誰もそんなことは言ってない」
「ほらほらぁ……」楓馬は顔をしかめて、理玖を睨みつけた。
「でも、女装させて宣伝するのはいいかもしれない」
「えっ、理玖まで、俺を陥れようと……」
「違う違う。女装したい人にやってもらえばいいんだよ。高専だし、そういう変わった性癖のある奴がいる確率は高いだろう?」
「あぁ、そういうこと」楓馬は納得して頷く。「なら、そろそろ模擬店に戻ろうかぁ」
人口密度も低くなったので、二人は、風船に封入するヘリウムガスの大きなボンベの側を通り抜けて、化学実験室を出た。
「あ。でも、うちのクラスに女装癖がある奴なんているかなぁ?」
楓馬が言うと、理玖は横目で彼を見た。
「無いものは創ってしまえばいい。そうだろ?」