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「うーん……見るに値するようなものは無いかなぁ」パンフレット冊子のページを捲りながら、楓馬が言う。パンフレットは、玄関で、一年生の女子が配布していたもので、先ほど手に入れたばかりだった。「これなら、寮でマンガ読んでるほうが楽しいなぁ、絶対」
「まぁ、ここの高専はそんなものじゃないかな。他高専はもっと活気がありそうだけど」理玖は、読んでいたパンフレットを閉じる。
玄関には人が入ってくるので、二人は隅に退いた。
「そういえば、課題とかは無いの?」理玖が訊く。
「あー……課題ねぇ。あることにはあるかな。建築製図でしょ、土質工学でしょ、それに……そう、物理に微分積分。あっちゃー……こりゃ地獄だなぁ」
「それなら……、寮に帰って課題をこなしてればいいんじゃない?」
「それも面倒なわけだよぉ」楓馬は唇を尖らせる。「理玖はもう、課題とか終わらせてるんでしょ?」
「うん」
「いいねぇ、優等生さんは」
「面倒事は早めに終わらせたい質だからね。そうすれば、あとが楽なんだ。気兼ねなく、ほかのことに没頭できる」
「俺なんか溜まりに溜まっちゃうからなぁ……。気付けば、机の上は課題のゴミ屋敷」
「課題=ゴミ、という等式が成立したわけか」
「そう。あんなの紙の無駄遣いじゃん。あ、無駄遣いといえば、試験もそうだ。あれこそゴミじゃないか!」突然、楓馬は声を荒げた。
「……まぁまぁ。年に四回だけしかないんだし、普通科の高校生に比べたら、随分楽してるよ」
「でもさぁ、その試験のおかげで、成績が下がってきてるんだ……。落としそうな単位だってあるし……下手すりゃ留年だよぉ」今度は、今にも泣きそうな声を出す。
「課題を出せば平常点がもらえるんだし、そっちにも力を注げばいいのに」
「でも、とにかく! 試験はゴミなんだよ。無くなればいい」
たしかに、試験が無くなれば、学生にとっては嬉しい限りだろうと理玖も考える。だが、成績の判断基準を何とすべきか、という問題が生ずるため、試験廃止は難しい。もし試験が撤廃されたとしたら、受講態度や提出課題で成績をつけることになるだろうが、それだと落第する学生が量産されるはずだ。とりあえずは、現行の体制がもっとも合理的なのだ。
「ま、いろいろと意見はあるよな……」
人の数だけ、意見はある。すべてが同一であるということは、ありえない。すべてを統一し、万人が納得できる結論を弾き出すことは、工作機械で完全な球体を作ること以上に困難なことだろう。
「んで、どうするよ。どこ回る?」楓馬は再びパンフレットを開いた。
「そうだね、楓馬は行きたいところ無いの?」
「軽音のライヴはどう?」楓馬は、軽音楽部のライヴが行われている教室のある二階を指差した。震えるような音が、現在でも響いてきている。
「いや」理玖は首を振る。「それは遠慮しておこうかな」
理玖が拒否したのは、鼓膜が張り裂けそうなほどの大音量と、人口密度の高さで、気分が悪くなってしまいそうだと判断したからだ。事実、過去に一度聴いて、吐きそうになった苦い思い出が彼にはあった。
「そか……まぁ、俺もそんなに聴きたいわけじゃないからいいけど」楓馬は少し肩を竦めると、パンフレットを丸めた。「んー、それじゃあ一階から適当に回るかぁ」
「うん、そうしよう」
結局、元来た廊下を戻ることになった。
その廊下、二つの棟を繋ぐ廊下の途中には、化学実験室がある。普段は閉まっている実験室だったが(理玖がいつも見るときにはそうだった)、今日は、そこで催しがなされていた。
「化学部の展示か。何々……」楓馬は、ドアの側に置かれた看板に目を注ぐ。「真空バズーカに、キーホルダー作り、ルミノール反応……。真空バズーカって何だろ?」
楓馬は、開いていたドアから化学実験室を覗いてみる。中では、白衣を着た数人の学生がうろついていた。部屋の奥に、長い筒が設置されているのが見えた。二人ほどの白衣の学生が、その筒の周りで何かをしている。
「あの筒みたいなやつかなぁ、真空バズーカって」楓馬は筒を指差した。
理玖も顔を乗り出し、中を見る。「あぁ……そうっぽいね」
「何をどうするんだ……? 理玖、分かる?」
「うん、分かる。まず、塩化ビニルか何かの筒の片方に、弾丸となるもの、例えば……、そう、卓球で使うピンポン玉をはめ込む。反対側は板か何かで塞いで、中の空気が漏れないよう密閉するんだ。そして、コンプレッサー――真空ポンプを使って、筒の中を真空状態にする。これで、準備完了。あとは、塞いでいる板を勢いよく外してやれば、ピンポン玉が高速で射出される」
「あぁ……、小学校でやった空気鉄砲みたいなやつ?」
「ちょっと違うかな。真空砲は、大気圧の力を利用してるんだ。板を外した瞬間に、外の空気が筒の中に入って、その空気圧で弾丸を押し飛ばす。だから、筒の長さが長いほど、射出の初速度も大きくなる。弾丸の材質、質量によっては、威力も結構出るよ」
「ほほぉ、見てみたい気もするなぁ……。あ、でも、時間が決まってるのかぁ」
「一回目の実験は十一時から……か」理玖は看板に書かれた時刻を確認すると、腕時計を見る。「あと、一時間半くらいあるね」
「それまで、校内をうろつくか……」
「そうするしかないかな」
さきほどよりも人が増えてきた廊下を、二人は進んだ。外の雨のせいで、床が若干濡れている。濡れたタイルは、少し滑りやすくなっていた。
下ってきた階段の側、一つ目の角を曲がると、弓道部と、4E(電気工学科四年)の模擬店が並んでいた。それぞれ、たこ焼きとキャベツ焼きを販売している。
どうですか、という声が聞こえるが、とくに腹が減っているということもないので、彼らはそのまま足を進めた。
二つの模擬店の隣の教室では、機械工学科の展示が行われていた。教室の半分を使って、実物のエンジン(鋳鉄製のシリンダブロック、ピストンなどが、分解されて並べられている)や宇宙エレベータのモデルなど、機械工学科らしい展示と、学科を紹介する掲示がなされている。もう半分のスペースには、展示物は何も置かれておらず、あるのは、三輪車大の装置だけだった。
「あれは?」楓馬は装置を指差す。
「看板に書いてあるよ」
楓馬は、廊下に置かれている<機械工学科 展示>と書かれた看板を見た。
「ホバークラフト……あぁ、あれか」
「そう、空気の力で浮いて動く乗り物。あそこにあるのは、とても簡単な構造のやつだね」
そのホバークラフトは、五角形に切り出された板材の底に、浮き輪が二つ、ついていた。板の上にある送風機から、パイプを通じて浮き輪の中央に空気を送り込み、機体を浮かせることのできる構造のようだった。
「ふぅん。小さい子が喜びそうだなぁ」窓越しに覗きながら、楓馬が呟く。
「そういう狙いもあるんじゃないかな。工学という分野に触れてもらい、興味を持ってもらう……。まぁ、実際に効果があるのは、子どもじゃなくてその親だろうけどね。保護者に良い印象を持ってほしい、っていうのが大きいかな」
「なるほどなぁ」
「推論でしかないけどね」
二人は、さらに足を進めた。
もう一つ奥の教室は、黒い幕が内側から張られていて、窓から中の様子を覗くことはできなかった。廊下に放り出されている看板を見ると、「演劇部」とある。その下に、上演する物語とその時間が記されていた。「騎士」という単語があったので、中世ヨーロッパを舞台にした英雄譚か何かなのではないか、と理玖は勝手に推測した。
その教室を素通りして、二人は突き当たりの階段を上がる。
上がったすぐの教室には、ロボット研究部の展示があった。看板には、〈ロボカフェ〉と書いてある。ただロボットを展示するだけでなく、コーヒーやクッキーを提供しているようだ。覗いてみると、訪問者も数人おり、制服の学生が、親子に何か説明をしていた。
「うちは、今年も全国に出られなかったんだよなぁ」楓馬が呟く。
「県外も強いところが多いからね」
そう言ったとき、理玖は窓際にいたメガネの男子学生と目が合った。
「あ、勝占」その学生は、ロボット研究部の森下だった。そして、理玖のクラスメイトでもある。「……何してんの? 3M(機械工学科三年)の宣伝?」
「いや? 単に暇だから、いろいろと回ってみてるだけだよ」
「そっかー。そうだ、暇ならここでゆっくりしてきなよ」森下は理玖たちを手招きする。「ついでに、コーヒーとクッキー、買ってくれると嬉しいけど」
「残念ながら、俺たちはまだ腹が減ってないんだ」
「無理にとは言わないよ。ま、ゆっくりしてってよ。僕も暇なんだ」
森下に案内されるがまま、理玖と楓馬は設置された椅子に座った。森下も、椅子に座る。
室内の半分は机と椅子のカフェスペース、もう半分はロボットの展示スペースとなっていた。展示されているロボットは、今年の「高専ロボコン」で活躍したものだ。いくつものアルミフレームが、複雑に交差している。
「今年も残念だったなぁ、ロボコン」理玖は森下の方を見て言った。
「そうだね、いいところまでは行ったんだけど……。詰めが甘いのかな。……ま、来年こそは全国に行けるよう頑張るよ」そこまで言って、森下はメガネの位置を補正する。「それと、女子部員の獲得も目指さないと。未だにゼロだからね」
「たしかに、花が欲しいのはあるね」
「男だらけっていう環境は、絶対に良くないと思うんだ。なんで入って来ないんだろう、女子」
「どうしても男が多いから、入って来づらいというのはあるだろうね。でも、女子にとったら逆ハーレムになる絶好の機会なのに、もったいない」
「うん……、ま、部員も部員だし、入って来づらいんだろうな、ここ……」
森下が腕を組んで唸ったとき、「先輩」という声が背後から聞こえた。振り返ると、メガネを掛けた男子学生が一人、たたずんでいる。彼もまた、ロボット研究部の一員なのだろう。ロボ研部員のメガネ率が高いのは何故か、と理玖は考える。そもそも、高専生のメガネ率も高いので、それは必然的な現象とも言える。
「何?」森下が訊く。
「外回り、行ってきます」後輩の手には、厚紙が握られていた。そこには、「すごく……おいしいです」と、とある界隈で有名なフレーズをもじった文句と、青いツナギを着た人物がコーヒーカップを持っている絵が描かれていた。どうやら、宣伝用の看板らしい。
「あー、行ってらっしゃい」
森下の返答を聞いてから、後輩学生は教室から出ていった。
「別にいいのにな、言わなくても」森下は愚痴るように言う。
「何か、スゴい看板だった気がするんだけど、さっきの……」楓馬が口を開いた。
「あ、気付いた?」メガネの奥にある、森下の瞳が輝く。「僕が描いたんだ、いいだろ、あれ。ほかにもあるんだよ」
森下は席を立つと、教室の隅に無造作に置かれた厚紙の山から、数枚を取り出して持ってきた。
「ほらね」
彼の見せてくれた厚紙には、青いツナギを着てベンチに座った男性のフキダシに、「飲まないか」と書かれていた。これは……、明らかにアレだろう。ここでは明言しない。
ほかにも、これまたとある界隈で有名であろう男性が、「まずうちさぁ……コーヒーあんだけど、飲んで行かない?」と発言している絵が描かれているものがあった。これについても、明言は避けておこう。
「これは……、うん。絵は上手い」
「さすがロボ研だなぁ……」
理玖と楓馬は、うんうんと首を振った。何がさすがかと言われれば、そういうネタを堂々とぶっこめる高専生が、である。そういうネタは大好きなのだ。いつだったか、「蒼華祭」のキャッチコピーが、とあるエロゲのタイトルをもじったものになったことがある。
そのあと、話題はロボットとロボコンのことに移った。森下は、ロボットの製作や調整で苦労したこと、生じた問題点、それに対する考察や改善点などを語った。
製作に関しては、旋盤やフライス盤の前に立って、一日中アルミ材を削っていたのが辛かったという。しかし、年を重ねるごとに、辛い感覚は薄れていっているらしい。
ほかに、彼が語った話の中で印象的だったのは、ロボット作りのために糖尿病になりかけた、という話である。
それは、縄跳びをするロボットを作らなければならない年の話であった。
ロボットを跳躍させるため、エアシリンダを使うことになったのだが、その際、高圧の空気を溜めておくためのペットボトルが必要になった。それから、どのペットボトルが耐圧性に優れるか、という計測と実験を行い、その結果、 コーラの1・5リットルペットボトルが最適だという結果に落ち着いたので、それから毎日、部員総出でコーラを飲み続けたという。
最初のうちは楽だったが、飲み続けるほどに苦しくなり……。今でも、コーラを見ただけで吐き気を催すようになったらしい。
大量に課せられたノルマをクリアするため、寮の風呂場でメントスコーラをして消費しようという案もあったようだったが、寮務主事の指導が入ったので止めた、という逸話もあった。
そんなこんなで、部員たちは苦行を強いられた挙げ句、糖尿病寸前まで追い込まれるという二重苦を味わったのである。
話を続けているうちに、半時間以上が経過した。時間が気になった理玖は、腕時計を見る。十一時まで、あと三十分ほどだ。
「あれ、何か予定あった?」森下が訊く。
「まぁ、十一時から見たいものがあって」
「そっかー。なら、長く引き留めておくのも申し訳無かったかな」
「いや、面白い話が聴けてよかったよ。それじゃ、そろそろおいとましようかな」
「うん、僕もいい暇潰しになった。また暇だったら来てよ」
「そのときは、コーヒーでも頼もうかな」
「そうしてくれると嬉しいっす」
理玖と楓馬は椅子から立ち上がると、教室の出入口に向かう。森下が手を振っていたので、理玖も手を振り返し、二人は教室を後にした。
「十一時まで、まだ時間はあるし……。どうする?」理玖は楓馬に視線を送った。「建設の展示でも見に行く?」
「いや、いいよ別に」楓馬は顔の前で手を振る。「行ったって面白いものは何にも置いてないし」
「何が置いてあるの?」
「測量用の器具とかじゃない? 三脚とか測量ポールとか」
「あぁ……、興味ない人には全然面白くなさそうな気もしなくはないね」
「だろ? 建設なんて、マイナだからなぁ」
楓馬は、どうしようもないといった表情で肩をすくめた。