12
「えっ? 三瀬なら美浦と帰ったぞ」楓馬は、理玖の問に淡々と答えた。「何か伝言か? なら、ラインで伝えとくけど?」
「いや、いないならいいよ」
放課後の3Cの教室には、学生はほとんど残っていなかった。今日は授業が3コマしかないので、午後二時半過ぎには放課になるのだ。現在時刻は午後三時半。試験勉強のために残っている者しかいない。
「でも、理玖がわざわざここまで来るってことは、何か大事な用があるんだろ?」楓馬はスマートフォンをいじりながら言う。SNSアプリを開いているようだった。
「まあ、いちおうはね」理玖は答えを言わない。
「なんだよ」楓馬は顔を上げる。「気になるから教えろよ」
「……事件のことなんだけどね。教員が殺されたほうの凶器について調べてるんだ」
「は? 三脚じゃなかったの? まえはそう言ってたじゃん」
「でも、よく考えてみてよ。あんなものを持ってうろついてたら、何が何でも怪しすぎないか?」
「文化祭の時、建設科の展示で使うから運んでたのかもしれない」
「でも、事件の現場は機械棟の三階。建設の専門展示があったのは建設棟だし、器材室のある建設棟からわざわざ機械棟まで運ぶ必要はない。だから、そんなことあり得ないんだ」
「ははあ、なるほどな。たしかに」楓馬は納得したようだった。「ん? で、なんで三瀬に用があるんだ?」
「凶器はやりのようなもの。そして彼は、陸上でやり投げをしている。だからかな」
「あいつを疑ってるのか?」
「違う」理玖はすぐに首を振った「そのやりについて詳しく訊こうと思ったんだ」
「ははん。そんじゃ、調べればいいじゃん」
楓馬の言葉に、理玖は目を大きくさせた。「何を調べるの?」
「部室にそのやりはあるだろ? だから、直接行って調べればいいんだ」
数分後、理玖と楓馬、緋香里の三人は、四百メートルトラックの競技場に隣接した陸上部の部室の前に立っていた。部室は一般的な公衆便所くらいの大きさで、錆びた鉄の扉には「陸上部」という札がかかっている。扉に鍵はかかっていない。
「勝手に入っていいの?」理玖が訊いた。
「知らん。でも、別に大丈夫じゃね?」無責任なことを楓馬は言った。「今はテスト期間だから、誰もいないはず。問題ない!」
「じゃあ僕はここで見張ってるよ」と緋香里。
「誰もこないとは思うけどさ。じゃ、入るぞぉ」
ヒンジが軋む音を立てながら、楓馬は扉を開けた。湿っぽい空気が、彼の躰を包む。
楓馬に続いて、理玖も部室へ潜入した。中は薄暗く、左手方向に木製のロッカーとベンチがある。周りには、シューズやスパイクが無造作に置かれていた。入って右に進むと、ハードルなどの器材が整理されて鎮座していた。
「すごい不用心だな、ここ……」理玖がつぶやいた。
「まあ、こんなもんだろ」言いながら楓馬は、部室をあちこち見回す。「やりはどこだ……?」
「あっ。あれかな」
理玖は、部室の隅を指差した。長いものが数本置かれている。
楓馬がそばに寄った。「これだな。やりだ」
理玖は楓馬の隣で、やりの観察を始める。実際に見てみると、かなり長いことがわかる。分解はできなさそうだ。
「この……、先に付いてるの何だろう」
楓馬が座り込んで、一本のやりを指を差す。暗くてよく見えないが、やりの尖鋭な先端に、赤黒っぽいものが付着していた。
「待って楓馬、触らないほうがいい」
楓馬が手を伸ばすのを理玖は制止すると、彼はポケットからティッシュを取り出した。そして、それを付着物に押し当てる。少し擦ってから、彼はそれを剥がした。
白いティッシュに、今にもぼろぼろになりそうな固形物が付いている。
「おい……それ、もしかして――」
楓馬はその先を言わなかった。
「凝固した血……」理玖は静かにつぶやく。「いや、暗いからなんとも言えない」
「え、あ、ちょっと、まじか?」
楓馬は少し動揺しているようだ。理玖は、彼を連れて部室の外に出た。
「ん? 早かったねー」外で待機していた緋香里が首を傾げる。「何かあったん?」
「いや、まだ何とも言えないけど……」
明るい場所に出たので、理玖は付着物の観察を再開した。だが、それは十分観察するまでもないものだった。
「ただの土だよ、これ」
理玖の言葉に、楓馬は安堵したような顔になる。
「はあ……、びっくりした。ほえー、いやほんと、まじで……」
「鎗戸君、さっきから何かおかしいよ……」緋香里は怪訝そうに眉を寄せた。
「だって、血を見るのはさ……」楓馬は顔をしかめた。
「ん……、とりあえず……」
やりは凶器ではなさそうだ。しかし、断定はできない。部室に鍵がなく、誰でも出入りができてしまうということは、誰かがやりを持ち去り、凶行に及んだ可能性も否定できないからだ。やりを折るか削れば、凶器として使えない代物ではない。事実、やり投げの練習や大会中に、やりが人に刺さるという事故も起こっている。
「教室に戻ろう。誰かに見つかるよ」
理玖の言葉に二人はうなずき、部室の扉をきちんと閉めたあと、彼らはその場から逃げるようにして立ち去った。
「そういえば楓馬、あのリストに載ってた人たちについて、何か詳しく訊いた?」
部室から百メートルほど歩いたところで、理玖が話を切り出した。
「えっ」楓馬ははっとする。「ごめん、忘れてた」
「なら、別にいいよ」
「おお、さすが理玖。懐が広い!」
「もう少し、動機の面から探ってみようと思っただけだからね。そうそう……」理玖は思い出す仕草をする。「七條と利根田教員が、連絡を取り合ってたって話があるんだけど、それについては何か知らない?」
「へえ、そりゃ初耳だなあ。……あんなカタブツとね」
「何も聞いたことはない?」
「何も」楓馬は首を振った。「うーん。七條は真面目なやつだったから、授業で分からないところを訊いてたのかもしれないなあ」
「実は事件の直前にも、連絡をとったらしいんだ」
「へえ。ってことは、もしかして七條が利根田を――」そこまで言って、楓馬は首を捻った。「ううん、そんなことはないと思うけどな……。絶対に」
「絶対、っていうのはありえない。人間は極めて不安定な世界を生きてるからね」
「逆にさ、その利根田って先生が七條を殺そうとしたとか?」と緋香里。「なんでかは知らないけど、その可能性もあるわけだよね?」
「十分にある」理玖はうなずいた。「ほかにもいろんなことが考えられるよ。犯人xが、七條と共謀して利根田を殺害しようとしたけど、揉めて七條も殺してしまったとか」
「あー、何が何だか分からなくなってきたぞ」楓馬は髪を掻いた。「くそぉ。変なことに首を突っ込んじまったなあ……。あのとき、死体なんて見なけりゃ……」
「俺に女装なんてさせなきゃよかったんだよ」理玖は、女装した自分を思い出して少し嫌な気持ちになった。
「いや、あれは理玖が悪い。女の子みたいな理玖が悪い」
「はあ!?」
「お? あのときの画像見るか? 綺麗に撮れてるぞ!」
「ばか、やめろ! 見せんな! 消せ!」
「ほれほれ。加工してみたらけっこういい感じぃ」
「このシスコン野郎が! 妹の経血でも飲んでろ!」
「まーまー、落ち着いてよ」今にも暴れだしそうな二人を、緋香里がなだめる。「あ、そうそう。あとで分かったことなんだけど、文化祭の日、ミスコンとかミスターコンとかしてたらしいよ」
「ミスコン?」理玖が聞き返す。「高専女子ってそんなにレベル高くな――ううん、けっこう可愛い子いるよね」
「……で。それには女装して出場してもOKだったみたい。だから、理玖もそれに出ればよかったのになーって今になって後悔してる」
「くそ、お前も言うか!」
「可愛かったのに……もったいない」
理玖は「うがああ」と吠えた。心の中で。どうしてここまでいじられなければならないんだ。一生の不覚だ! と。だが、仕方ない。過去は変えようがないのだから。そう自分に言い聞かせ、噴火寸前の気持ちを抑える。
彼は、ふと西の空を見た。どんよりとした灰色の雲が、太陽を覆い隠そうとしていた。