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「あれ?」
機械の駆動音や金属の切削音があちこちから聞こえてくる工場で、緋香里は声を上げた。彼女はフットブレーキを踏み、旋盤の回転を止める。
「うーん……」紺色の作業服に身を包んだ彼女は、腕を組んで数秒間唸ると、作業台の上に置いてあったノギスの顎をアルミの工作物に当てた。「あー、まじか……」
「どうしたの?」
隣の旋盤で作業をしていた理玖が、手を止めて緋香里の方を向いた。
「いやさ、外径ミスったなーと思って」
「削りすぎたの?」
「あー、うん。そうそう。1ミリ切り込んだら外径が2ミリ削られるのを忘れてて」そう言って緋香里は、舌を唇の間から覗かせた。「くそー、初歩的なミスしちゃった。先生に言ったほうがいいかなあ」
「どうだろう。今回は、とくに外径は影響しない部分だから、適当に調整しておいてもいいんじゃない? それがあとあと効いてくるようなら一から作り直したほうが無難だとは思うけど」
「うーん、ま、相談してみる。あ、せんせー」
ちょうど、彼女の隣に技術職員の先生がやってきたので、彼女は悪びれた様子もなく声をかけた。
それを確認して、理玖は作業に戻る。
火曜日の午後、機械工学科の三年生は、工作機械で工作物を加工する実習がある。今は、高専の敷地内にある工場で実習を行っており、理玖や緋香里たちのグループは、今回は旋盤の実習だ(ほかにも、フライス盤や溶接、NC工作機械を扱うショップがある)。
彼らは今、鋳鉄(鋳造された鉄)を旋盤で削り、スターリングエンジン(温度差を利用した外燃機関)のシリンダを図面に則って作製しているところだ。
理玖の作業は順調に進行していた。外径、端面加工ともに誤差は0.05ミリ以下。彼は、事前に作ってあった作業工程表に則り、次の作業を進めていく。
安全第一なので、今の理玖の頭には、目の前のことしか入っていない。事件のことも忘れていた。ちなみに、安全第一という標語には続きがある。品質第二、生産第三だ。
午後の実習は終わり、ところ変わって3Mの教室。
「あー、疲れたぁ」
教室から離れた女子更衣室で作業着から制服へ着替え、教室に戻ってきた緋香里は、自席に座って机の上にだらしなく倒れ込んだ。
「大変だったね」隣の席で、理玖は彼女を労うように言う。
「いやほんと。まさか、作り直しなんてねー……」
ああー、と締まりのない声を出して、緋香里は顔を突っ伏した。
「ん? 落雷さん大丈夫なの?」
背後から声がして、理玖は振り向いた。すると、メガネをかけた森下がそこにいた。彼も作業着姿で、ついさきほど実習を終えて帰って来たようだ。「具合でも悪いの?」
「いや、いつものオーバー・リアクションだよ」
「いつも通りってことだね」森下は微笑む。
「ふぅ。立ちっぱなしで足が疲れたよ」緋香里は躰を起こしてそのまま捩り、森下の方を向いた。「ロボ研は大変だねえ。夏休みもずっとあんな感じで作業して、さ」
「そうだな……」ロボ研の森下は作業着の上着を脱ぐ。「社畜になるための訓練だと思えば、あんなものどうってことないよ」
「嘘ぉ? そんなこと思いながら削ってるん?」
「ごめん、冗談。慣れれば何だってできるようになるよ。僕だって、一年生のときは疲れたさ。でも、慣れってホントに恐ろしいよ……。これは、何にでも言えることだけどね」
「そっかぁ。じゃ、仕方ないなー」緋香里はぐだっ、と再び机上に倒れ込む。
「そういえば、勝占」森下はベルトに手を掛け、作業着のズボンを脱ぐ。
「何?」
「あの殺人事件って、もう解決したの?」
やはり、誰もが事件のことについては気になっているらしい。発生から時は過ぎているが、口にしないだけで、本心は野次馬精神にあふれているようだ。
理玖が「まだだよ」と答えると、森下は少し残念そうに、だが興味津々といった感じで、「ああ……、そうなの?」と返した。
「ちょうどいい。森下の見解を聞かせてもらおうと思ってたんだ」
「え? 僕に?」
森下の驚いた顔を直視しながら、理玖は「うん」とうなずく。
「え、でも、僕はただ気にかかってるだけで、何か考えがあるわけじゃないよ?」
「いや、そういうんじゃなくて、専門家的な意見。科学的・技術的な考証がしたいんだ」
「ほう」森下は制服のズボンに着替え終えた。「何かな?」
「トイレの個室で、教員が殺されていたことについてなんだけど、やりのような凶器を射出できて、証拠が残らない装置って作れると思う?」
「どういうこと?」
「教員は、トイレの個室で腹のあたりを刺されて大量出血で死んでいたんだ。しかも、個室は密室。つまり、個室に何か、凶器を射出できる装置があって、犯人はそれをあとで回収したんじゃないかなと思って」
「ははあ、なるほど。というか、勝占はおもしろいことを言うね」
「どう思う?」
「そうだね……、射出するだけなら、ゴムの弾性力を使えばいいし、弓矢とかボウガンみたいな機構で射出してもいい。そういう装置なら作れると思うよ。カメラとかのセンサ類も取り付けて、遠隔操作できるようにすれば簡易的な殺人ロボットの完成」
「それだと、凶器が被害者の躰に刺さったままになる。どうにかして抜けるようにできないかな?」
「いちばん簡単なのは、やりにワイヤを括り付けておいて、射出したらそれを巻き取る方式だと思う。でも、高速で巻き取らないと、うまく巻き取れないかも。モータのトルクも大きくないといけないから……、うん、難しそう」
「なるほど、ね」
「あ、凶器が自然に消えるようにすればいいのかも」森下は軽く目を見開いた。
「自然に?」
「うん。たとえば、氷で作るとか。尖った氷柱を作って飛ばせば問題ないよ。残るのは水だけだし。トイレなら、水があっても不自然じゃない。もっと自然に見せかけるなら、血液で氷柱を作れば大丈夫だね。血液型までそろえておけば、殺したあとに被害者の血と混じって見分けはつかなくなる。……あ、なら、ロボット自体も溶けるようにすればいいね。低融点合金を使えば、熱するだけで流れ出る。でも、とてもじゃないけど現実的じゃないなあ」
「なかなか……おもしろいアイデアだね」
「うん……。考えるのだけならいくらでも思いつくんだけど、そんなものを作るのは、僕らの技術力では無理そうだよ」
「そっか。ありがとう」
礼を言いつつ、理玖は考える。やはり、凶行に至ったのは人間でしかないな、と。殺人機械を作って人間を殺すなど、コストが高すぎてそんなことをする人間がいるようには思えない。先入観は排すべきだが、リスクを考えると、機械を使うことはまずないだろう(不具合が起こる場合だってある)。
教員殺害に使われた凶器は一体何なのか。トイレの個室で扱える大きさのものに限られるのは明白である。昨日の伯父とのやり取りの中で、三脚が凶器ではないと解った。普通に考えれば解ることだが、そもそも、三脚のような大きなものを持ち込もうとした時点で誰かに見つかってしまう。つまり、手ごろなサイズの凶器しかありえない。森下との会話の中で出てきた氷柱だという可能性も捨てきれない(殺傷能力がどれほどのものかを検証する必要はある)。
(そういえば……、やり投げのやりはどうなんだ?)
理玖は、スマートフォンを取り出して、「やり投げ やり」と検索した。長さは、約2メートル半ほどとなっているようだ。これも、個室まで運ぶことに無理がある。しかし、不可能なことではないと理玖は睨んだ。やりを短くしてしまえばいいのだ。折ってしまえば、懐に隠せるくらいには小さくできる。
理玖は席を立った。そして、緋香里の名を呼ぶ。
「んあ?」彼女は間の抜けた声を出した。
「3Cの教室まで行かない?」
「今日も聞き込みでございますか?」
「いや」理玖は軽く首を振った。「確かめたいことがあって」
「何かおごってくれる?」
「相対性理論の本」
「要らん」緋香里は顔をしかめて即答した。
「そう」理玖は躰の向きを半回転させる。「じゃあ一人で行ってくる」
「……あ! やっぱ行く!」
がたっ、と言わせて緋香里は席を立つと、彼女は理玖の後に続いた。
森下がくす笑いをしていることには、二人とも気付かなかった。