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ドアをノックする音が聞こえた。そして、間髪を入れずにドアが開かれる――。
「理玖」
それは、母の声だった。ノックと同時にドアを開けるとは、何という母親だろう……。この鬼畜ともいえる所業に、思春期の健全な男子たちは恐れおののくはずである。
しかし、理玖にそれは通用しなかった。彼は今、ノートPCでレポートを仕上げているところだからだ。何も卑しいことはしていない。そう、何もだ。
「何?」
PCから流れていた音楽のボリュームを下げると、回転イスを四分の一回転させ、理玖は母親の方に向いた。彼女の手には、電話の子機が握られていて、それからは保留メロディが流れていた。壁の時計を見ると、時刻は午後十時を回ったところだった。
「伯父さんから電話が来てるよ」
「……伯父さん?」
何の電話だろう? と彼は思ったが、それは話せば分かることなので、詮索はしないでおいた。そもそも、要件を伝える相手以外に要件を伝えることはあまりしないだろう。
「うん。じゃ、はい。終わったら戻しに来てね」
母は理玖に子機を渡すと、部屋から出ていった。そのあと、「保留」ボタンを押して、彼は電話に出る。
「もしもし、伯父さん?」
『……あぁ、理玖か。夜分遅くにすまないな』
「いえ、大丈夫です」
『そうか。それよりも、先日はご苦労だったな』
「まぁ、それは仕方ないです」
昨日、理玖は警察署に呼ばれて再び事情聴取を受けたのだ。そのときは、楓馬も一緒だった。
「――それで、今度はどんな要件なんですか?」
『……えらく直球で訊いてくるんだな。やっぱり忙しいんじゃないのか?』
「まぁ、忙しくないと言えば嘘になりますけど。そんなことより、捜査の進捗はどうなんですか? 犯人は捕まりそうですか?」
『あぁ……、そのことで話をしようと思ってな。電話をかけさせてもらった』
「そのことで?」
警察官が一般人に簡単に情報を流していいものなのか、と理玖は思う。
コンマ数秒の間があって、電話の向こうで伯父が口を開いた。
『薄々、勘付いているのかもしれないが、進捗はあまり良くない。金銭トラブルや人間関係のセンで聞き込みをしたりはしているんだが、どうも犯人に関する有力な情報が無いのが現状だ』
「でも、現場に残された証拠なんかはあるんでしょう? そこに何か手がかりは無いんですか?」
『それは、鑑識の連中とも調べている最中だ。詳しいことは言えないが……』
「そうですか」
『……で、要件だが。理玖、お前に捜査の協力をしてほしい』
「え?」
『お前が良ければの話だがな。嫌なら断ってくれても構わない。余計なことに首を突っ込ませるのは申し訳ないからな』
「あ……えっと、捜査に協力……っていうと、何をすればいいんですか? というか、俺みたいな一般人がそんなことしても大丈夫なんですか?」
『ま、とても簡単なことだ。学校の内部から、いろいろと調べてほしい。人間関係だったり、噂だったり、何でもいい。そういうのを、私に報告してくれれば助かる』
「それくらいなら何とかなりそうですけど……。でも、何でそんなことを? 警察のほうで聞き込みをすれば大丈夫なんじゃないですか?」
『たしかに、我々でも可能なことは可能だ。しかし、教育機関に立ち入るとなると、いろいろと面倒事が起こる。例えば、学生たちに話を訊こうと思えば、校長や担任の許可が必要になる。総合して言えば、我々は学校内で捜査しづらいというわけだ』
「それだけ聞くと……、職務怠慢ってことになりますね」
『たしかに、そうともとれてしまうが……』
「でも、そういうことなら仕方ないです」
『引き受けてくれるか?』
「あまり乗り気ではないですけど、伯父さんの頼みなら仕方ないです」
『すまないな。……それとだが、周囲には口外するなよ。余計なトラブルを引き起こす可能性があるし、こちらとしてもそれは本意なことではない』
「分かってます」
『では、よろしく頼む』
「はい、では失礼しま――」
『ちょっと待ってくれ、一つ聞きそびれていたことがある』
「何ですか?」
『携帯番号を教えてくれ。持っているだろう?』
「わかりました。えっと、080――」
理玖は携帯電話の番号を伝え終えると、伯父は、「よし分かった。また電話を掛けることがあるだろうから、そのときはよろしく頼む」
「はい。了解です」
そう告げてから、理玖は電話を切った。自室を出た彼は、階下へ子機を戻しに行く。
「何の話だったの?」リビングのテレビでバラエティ番組を見ていた母が、突然訊いてきた。
「え?……まぁ、いろんな話」
「いろんな話って何よ……」不機嫌そうに言ってから、母は眉をひそめた。「まさか理玖、何かやらかしたんじゃないでしょうね? お義兄さんは警察官でしょう? 何をやったの」
「いや、何もしてないよ」
「……じゃあ何なのよ?」
「学校でいろいろあって……。そのことで話を聞かれたんだ」
「えぇ? 学校で何かあったの?」
テレビや新聞で大きく報道されていないからか、母は何も知らないようだった。こういうときは、SNSなどのネット上のほうが情報は流布しやすいのかもしれないが、PCなどの扱いが得意でない母は、そういうことを知らないのも無理はない。
話すべきかどうか彼は迷った。だが、事件のことを話しても母から何かが得られるわけではないから、彼は言わないことに決めた。ただ一言、「ちょっとした事件だよ」とだけ口にして、彼は部屋に戻った。母はとくに呼び止めることもしなかった。
彼は椅子に座ると、PCに向かって、レポートの作成を再開した。レポートはちょうど考察に入るところだ。しかし、彼の今の考察の対象はレポートの内容とはかけ離れていた。
さきほどの伯父からの依頼、あれを受けてよかったのだろうか。
すぐに犯人も捕まりそうな気がするし(根拠はないが)、ただ無駄骨を折るだけになってしまわないだろうか?
それなら、断ってしまうのが手だったか。理玖は思う。
しかし、しかと承諾してしまった今、辞退の電話を入れるのは気が引ける。
それに……。
わずかだが、事件に対して興味が強まっているような気もしなくはなかった。
謎を解いてみてもいいのではないか、
犯人という「解」を求めてみてもいいのではないか、と。
理玖は、一度深呼吸をした。
――どうせやるなら、徹底的に。
彼は意識の焦点を目の前に戻すと、再びキーボードを叩きはじめた。