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それは、一瞬の出来事だった。
強い衝撃、視界の暗転。そして、崩れ落ちる躰。
意識までは途切れなかったものの、もう少し衝撃が強ければ気を失っていただろう。
今、理玖の背中には冷たく固い平面が当たっている。
「おい理玖、大丈夫か?」
聞き慣れた声。楓馬の声だ。
「……ま、まだスパイクじゃなかっただけマシだな」
焦点の合わない視界に、歪んだ楓馬の顔を捉える。
「ってぇ……」
理玖は顔に手を宛がいながら上体を起こした。少し首が痛む。さきほどの衝撃のせいか。
彼が現在の状況を認識するのに、そう時間はかからなかった。
今は体育の授業中。体育は、機械科と建設科の合同授業だ。そして、混成チームを組んでバレーボールをしていたところ、相手チームの打ったサーブが理玖の顔面を直撃し、倒れた――。
「すまん、勝占。狙ったつもりじゃないんだ」
理玖の元に、男子学生が駆け寄って来た。長身の彼は、理玖のクラスメイトの長峰仁だった。スポーツ万能で、顔もいい。しかし、彼女はいない(余計な情報かもしれないが)。
「いや、大丈夫。俺の不注意だし、気にすることなんてないよ」
「ほんと、すまない……」
長峰は自責の念をにじませたような表情で、深く頭を下げた。たかだかボールが当たっただけなのに、ここまで謝られると逆にこちらが申し訳ないな、と理玖は思った。
「理玖、立てる?」楓馬が訊いた。
「問題ないよ。ちょっと首が痛むくらい」楓馬に手を引かれて、理玖は立ち上がる。
「当たったとこ、赤くなってるな……。ちょっと休むか?」
「あー、うん、どうしよう……」
理玖は自分のチームメンバーを一瞥する。別に、自分一人が抜けたところでどうにもならないだろうし、試合なんかじゃないのだから、負傷してでも闘うといったスポ根魂を見せなければならないわけではない。
「じゃ、抜けとく」理玖はそう判断を下した。
「おう」
理玖はコートから出ると、得点表の側に座った。その隣に、楓馬も胡坐をかいて座る(彼は試合中のチームではない)。そして、ゲームが再開された。
理玖はボールの行方を目で追う。レシーブ、トス、スパイク。バレーボールは、ボールの接触がなぜ三回までなのか、と理玖は考える。別に四回でも、五回でもいい気がする。それなら、戦法にも若干の多様性が生まれそうだ。ただ、それだとゲームのリズムが崩れそうでもある。やはり、三回という回数がしっくりくるのだろう。
「なぁ理玖。犯人、まだ捕まりそうにないの?」隣の楓馬が訊いてくる。
「え?」
「ほら、文化祭殺人事件のさ。伯父さんからは何も聞いてない感じ?」
「あぁ……、うん。何も聞いてないよ」
「そうかぁ……」楓馬は呟くように言った。「そんなに進展ないのかねぇ」
「3Cの様子はどんな感じ?」
「そうだなぁ、そんなに変わりないかな。でも、まえよりは静かになったのは確実」
「そっちは、いつもそんなにうるさいの?」
「動物園みたいな感じ」
「ふぅん。先生も授業しやすくなっただろうね」
理玖の問に、楓馬はうーんと唸った。「それはどうかなぁ」
「何か弊害でも?」
「いや、静かすぎて、逆にいつもの感じで授業ができないみたいなんだよなぁ」
「うん? それもそれでどうかと思うけど」
「でも、試験が近いから授業は淡々と進むわけなんだよなぁ……」
「それでいいんじゃない」
「まぁ、そうなんだけどさぁ」楓馬はそこで溜め息をついた。「ほんと、誰が七條を殺したのか……」
「でも、七條って殺されるような奴じゃないよね」
「ん? まぁ……そうだなぁ、殺されるような奴じゃないよな。成績優秀で、優しくて、イケメンで、彼女もいる。……っておい、これ完璧すぎね?」
「何が?」
「いろいろと。ここまで完璧な奴だとさ、逆に妬む奴もいるんじゃないか」
「そうかな?」理玖は楓馬に顔を向ける。「それを妬んで殺してどうするの? 殺したことで頭脳明晰になるわけでも、顔が変わるわけでもないだろ?……何も得られないのに殺人を犯すなんて、最上級の無駄だと思うよ」
「うーん、たしかに……」
「それに、そんな嫉妬は見苦しいだけ」理玖はコートに目を戻す。そのとき、彼のいたチームのコート内にボールが勢いよく叩きつけられた。一点が相手チームに入る。
「なら、七條は誰に殺されたんだ?」
「さぁ? それを追求するのは俺たちの仕事じゃないよ」
ひとしきり唸ったあと、楓馬が「あっ」と小さな声を洩らした。「もしかして、犯人は平島のことを好きな誰かじゃないかな」
「ん?」
「だとすれば、そいつは七條に嫉妬してるだろうし、殺害に成功すれば平島を手に入れることもできる。動機としては十分じゃないかなぁ。この名推理、どう?」
「名推理かどうかは抜きにして、可能性の範疇ではあると思うよ。ただ、殺してまで平島さんを手に入れようとするのはどうかなとは思う。殺人以外の手でも二人を別れさせることはできるんだし、そっちのほうがリスクも低い」
「でも、恋とかに盲目になってる人間ってさ、そんな思考はできないんじゃない? 世の中、論理的にものが考えられる人ばっかりだったらさ、殺人なんて起こらないと思う」
「論理的な思考ができる人間だって、殺すときは殺すよ。殺人は必ずしも感情的なものじゃない」理玖は一旦言葉を切る。「それに、組み立てられた論理による結論が倫理的に正しいとは限らないし、それは正義でもない。たとえば、『世界平和を実現したい』っていう話があったとする。そして、なぜ世界が平和にならないのかを考えていくと、資源の巡り合いがあるだとか、思想の違いがあるだとか、そういった理由で紛争や戦争が起こるからなんだよね。でも、そういう争いごとは、人間がいるからこそ生まれる。ってことは、『人類が存在する限り地球上に平和は訪れない、だから人類の大虐殺を行おう』なんていう結論も出るってわけ」
「……なんか、話が飛躍しすぎてない?」楓馬は少し首を捻った。
「そだね」
「ま、いずれにせよ、犯人には早く捕まってほしいよなぁ」
「たぶん、時間の問題だと思う。日本の警察は少なくとも無能じゃないし」
「……だよな」
二人の会話はそこで途切れた。そのあと、理玖のいたチームが二十五点を先制したところで、ゲームは終了となった。セットマッチ制ではないので、どちらかのチームが勝利を博したところで次の組合せに移る。
「よっしゃ、次は俺んとこの出番だな」胡坐を解いて、楓馬は立ち上がる。「俺の活躍を見といてくれよな、理玖」
「うん」
楓馬は男子バレー部に所属している。活躍するのも当然だろう。
宣言通り、楓馬はそのあとのゲームで獅子奮迅の勢いだった。そのゲームの最終的な結果は二十五対四。誰がどう見ても圧勝だ。
そのあともゲームは続いたが、理玖は参加せず、九十分間の体育のほとんどを見学に費やした。首の痛みは治まっていたが、理玖は運動が得意なほうではないので、わざと見学をしていたのだ。
体育のあとの最終コマを終えると、午後四時には放課となる。
部活動をしていない理玖は、すぐに帰宅の途に就いたのだった。