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最上の思考は孤独のうちになされ、
最低の思考は混乱のうちになされる。
――トーマス・エジソン(発明家・企業家、1847-1931、アメリカ)
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十一月十一日、水曜日。
この日から、平常授業が再開された。順当に文化祭が行われていれば、月曜日があと片付けで、火曜から授業が始まる予定だったのだが、事件やその捜査によってその日程は狂ってしまっていた。
しかし、事件があったあとの重い空気は完全に離散し、校内には普段の雰囲気が戻りつつあった。
正午――講義の終了を告げるチャイムが流れる。
静かだった教室はとたんに騒がしくなる。クラスの半数を占める寮生は、食堂が混むまえに、と足早に教室から出ていく。それ以外の学生は弁当を鞄から取り出して、グループを形成してから食事を始めた。
「ダメだ、微積まったくわかんねー!」机の上で開いていたノートを勢いよく閉じて、緋香里はそう叫んだ。さきほどの講義は「微分積分」だったのだ。
「そうかな?」緋香里の隣の席に座る理玖が、彼女の顔を窺いながら言う。「難しいことなんて全然してないと思うけど」
「理玖はそうかもしんないけど……」
「数学が苦手なのに、この学校を選んだこと自体が間違いだったんだ」
「えー、だって、そんな数学ばっかやるなんて知らなかったし? 微分とか積分する意味わからんし?」
「数学はただの道具だよ。……来年からは専門科目がメインになるし、今年でドロップ・アウトしたほうがいいんじゃない? 一応、高卒認定だけはもらえるし、そうしたほうが身のためだと思うよ」
「んー……でも、それもめんどいんだよね。そのあとどうするかも考えなきゃいけないし?」
「ってことは……来年から地獄を見る覚悟があると?」
「ふふん、理玖はバカだなぁ。今年も進級が危うければ、まだ地獄は見ないんだよ?」
にかっと歯を見せる緋香里に、理玖は呆れ顔になる。
「……つまり、永遠に三年生でいたい、と」
「うん、そうそう、まだ女子高校生を名乗れるし、いいよね!」
「四年生に上がってもJKって言えるんじゃない?」
「え?」
「〝女子高専生〟だからJK」
「えー。なんかそれ、詐欺みたい。やっぱり、真っ当なJKを名乗るなら三年生じゃないと。制服着れるんだって三年生までだし」
「それは緋香里の勝手だけど。いずれにせよ、迫りくる試験について考えるべきかも」
「え? 何それ僕知らない」
文化祭が終わって、次に来る大きな行事は後期中間試験。高専の試験は年四回(前期中間、前期末、後期中間、学年末)しかないので、一つあたりの重要度は高い。一概には言えないが、「過去問」というチートアイテムさえあれば得点が取れるのが特徴だ。ちなみに、高専の試験は六十点で赤点である。紙の試験で赤点を取っても、最終成績で六十点あれば単位が出るので、試験に舐めてかかる学生が多いのも実情だ(大抵の学生は単位を取得できているが、留年する者が多いのも実情)。
「……分からないところは教えてあげるから」
「あー、うん。……今回もいろいろとよろしく」
緋香里がぎこちなく微笑むと、理玖は少し眉を寄せた。
「うん、さすがに前期の物理で十五点取ってたのはまずいと思う」
「あ、そうそう……」緋香里はあからさまに視線と話題を逸らした。「そういやさ、事件の犯人って捕まったん?」
「いや、まだだと思う」
「へぇ。まだ捕まってないんだ。……勝占先生からは何も聞いてないん?」
「何も。……というか、警察が俺みたいなただの一般人に情報を洩らすわけがないよ」
「んー……? ま、そっか。そうだよね」緋香里は、合点した表情を見せる。「でも、それにしても進展なくない?」
「ないね」
「ホントに捜査してる?」
「さすがにしてるでしょ」
「でも、まるっきり警察の人とか見んことない?」
「いや、たまに来てる」
「ふぅん……」緋香里はリュックから菓子パンとペットボトルのジュースを取り出す。「うん……だったら、僕たちでも捜査してみたらいいんじゃない?」
「は?」予想外の言葉に、理玖は思わず訊き返す。
「だから、犯人捜し」
「……それは時間の無駄にしかならないよ」言いながら、理玖は鞄から弁当箱を取り出した。「餅は餅屋に任せるのが一番」
「またそんなこと言っちゃって……」
「じゃあ訊くけど、なんで犯人捜しなんてしようとするの?」
「そんなの、決まってるじゃん?」言うと、緋香里は左手に拳を作った。右手にはパンがある。「犯人捕まえてぶん殴るんだよ! 文化祭をめちゃくちゃにされた恨みを晴らす、的な感じ?」
「あれ。このまえは、クレープ全部食べてももらうとか言ってなかったっけ」
「え? そんなこと言った? ぜんぜん憶えてないや」
「……緋香里は、もっと記憶力を鍛えたほうがいいと思う」理玖は、白飯を一口運んだ。
「あ、バカにしてるな?」
「いつもバカにしてるよ」
理玖の言葉で、緋香里の眉間に皺が寄った。目つきも鋭くなる。当然と言えば当然の反応だ。
「……あとで覚えてなよ」
「忘れるなよ」我ながらうまい返しだ、と理玖は心でほくそ笑んだ。
「くっそ、腹立つなぁ……」緋香里は、ペットボトルの中身を一気に半分まで減らす。「でも、いつまでも犯人が捕まらないってことはないよね?」
「そりゃ、いつかは。別に、ミステリ小説にあるような密室殺人みたいに不可解な事件じゃないし、あと少しもすれば捕まるだろうね」
「そうだといいけど……」
何か意味ありげに言うので、それが気になった理玖は訊いてみる。
「どうしても、探偵ごっこがやりたいの?」
「いや、そんなんじゃないけど、あの子が浮かばれないやん?」
「あの子?」
「ほら……平島さん。あの、殺された七條って男子の彼女」
「あぁ」理玖は呆けたように答えた。
「彼氏が殺されちゃって辛そうだしさ。……学校には来てるみたいだけど」
「それで、犯人を捕まえて……えっと、それでどうするの?」
「罪を償わせるんだよ」
「具体的に、どんな償いをさせるの?」
「え?」
「物損なら、お金で償わせることはできるだろうけど、殺人の場合、何を償わせるの? 人命と等価のものがほかにある?」
「えっと……、ん……謝罪の言葉かな?」
「つまり、謝罪の言葉さえあれば、殺人でも何でもしていいってこと?」
「……そんなことは言ってないけど」
「でも、そういうことなんじゃないの?」
「え? ん……あー、なんか、よくわからなくなってきた。もうやめよ、この話」
「俺は別にどうでもいいよ。やめたければやめればいいし、続けたければ死ぬまでしてもいい」
「なんていうか……」緋香里は目を細めた。「前々から、理玖のこと変だとは思ってたけど、最近どんどん変になってない?」
「それは自分本位の考え方だよね。実際は、緋香里のほうが変になってるのかもしれないのに」
「そう? 僕は至って普通の子だと思うけど」
「自分の思う『普通』なんて、自分以外の誰かから見れば必ずしも普通じゃないよ」
「……もう何を言ってるのか、さっぱり」緋香里は肩をすくめる。
「じゃあ話は終わり。さっきから話ばかりで全然箸が進んでない」
「理玖が変なこと話さなきゃよかっただけじゃ?」
「……たしかに」素直に認めて、理玖は弁当のおかずに箸を伸ばした。
十分ほど経つと、教室に喧騒が訪れ始めた。昼食を終えた寮生が帰ってきたのだ。そして、男子寮生たちが、次々と服を脱ぎ始める。午後の最初の授業は体育だからだ。
「んー、僕もここで着替えていい?」緋香里が言う。
「え? まぁ、俺は別に構わないけど」
「うわ、変態」
「なんでそうなるの?」理玖は不機嫌そうに訊く。
「え、だって着替えが見たいって言うから……」
「別に見たいわけじゃないし、緋香里がここで着替えるって言うからそう言ったまでだよ」理玖は鼻息を洩らす。「……一応は女子なんだから、女子更衣室に行けば」
「さっきのは冗談。もちろん僕はそうするよ。ふふ。女の子の生着替えを拝んでこよっと……」
緋香里は蛇のようにちょろろと舌を出す。
「じゃあ行ってくる、またあとでね~」
緋香里は体操服の入った袋を持って席を立つと、手を振りながら教室を後にした。
(緋香里のほうがよっぽど変態なんだよなぁ……)
彼女を目で追いながら、理玖はそんな感想を抱いたのだった。




