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結果にはすべて原因がある。
――ガリレオ・ガリレイ(物理学者・天文学者、1564-1642、イタリア)
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「死体……?」理玖は訊いた。「ネコか何か?」
「い……いや、ち、違う……」楓馬は壁にもたれ掛ったまま、金魚のように口をぱくぱくさせている。「ひ、人……、人……だよ……、血、血が……」
「本当に人? 人形じゃなくて?」
「た……たぶん……、人だよ……、うっ」楓馬は口を押さえた。「げぇ、気持ち悪ぅ……」
「なら、早く出てきた方がいいよ」
楓馬が個室から出てきたので、入れ替わるようにして理玖は個室へ入った。そして、便器を踏み台にすると、彼は背伸びして隣の個室を覗き込んだ。
数瞬後、理玖は目を見開いた。
アイボリー色の壁に囲まれた個室に、赤いシャツを着た一つの人形が、ドアにもたれかけるようにして床に座っていた。いや、赤いシャツではない。白いシャツが、赤黒い染料で着色されている。
次に、顔を見た。メガネの奥の半開きの目には、瞳が無い。人形は、白目を剥いていた。男性で、四十代くらいだろうか。しかし、人形にしては作りが精巧すぎる(というより、四十代の男性の人形を作ることに何の価値があるのかが不明だ)。これは、人間だと認めざるを得ないだろう。
記憶にアクセスしてみるが、一致する顔は検出されなかった。つまり、理玖の知らない人物であるということを示す。だが、教職員証のついた紐を首からぶら下げているので、この学校の教職員だということは解った。書かれている名前までは、よく見えなかった。
四十秒ほど見つめてみるが、呼吸で腹部が動いている様子もなく、石のように動かない。演技だとすれば、なかなかの役者である。しかし、演技ではなさそうだ。得られる結論……、それは、彼は死んでいるということだった。
「楓馬、死んでいるのが誰だか解る?」理玖は、胸を押さえて震える楓馬に訊いた。
「そ……そんな、一瞬しか見てないし、分かるはずないだろぉ……」
怯える人間に、「もう一度死体を見ろ」というのも酷なので、理玖はそれ以上何も言わなかった。
彼は、もう一度死体を観察する。
赤いシミ、すなわち血液は、死体の腹部から広がっているようだった。腹を刃物で刺されたのではないか、と簡単な推理をする。そのほかに、目立った外傷はない。腹部を一突きにされて、失血死したのだろう。
「り、理玖ぅ……」楓馬のか弱い声が、理玖の鼓膜を震わせた。「び、病院……じゃなくて、け、警察に連絡したほうが、いいんじゃ……」
「……いや、まずは、誰か先生を呼ぼう。警察はそれからでもいい。死体は動かないから」
「あ……、あ、あぁ……」
「早くしないと、野次馬が集まってくる」
「わ……わかった」
震える声でそう言い残すと、楓馬はトイレから出て行った。
彼の姿が見えなくなったあと、理玖は気付いた。自分が、驚くほど落ち着いていることに。このような事態に遭遇した場合、楓馬のような反応が普通だと思うのだが、自分はそうでもない。なぜだろうか……。
数分後、頭髪が朧月の男性教員が、血相を変えて飛び込んできた。
「ひ、人が死んどるって……ほ、ほんまか?」
「……はい」理玖は、鍵の掛かった個室を指差す。「この個室に、男性が」
教員は、ドアを手で押す。だが、それが開くことはなかった。
「鍵が掛かっとるんか!」教員は、少しいらだったように言った。
「無理に開けない方がいいと思いますよ、先生」理玖が忠告する。「中なら、隣のトイレから確認できますけど……」
教員は焦ったように頷くと、理玖たちがしたように、便器に乗って、問題の個室を覗き見た。
「ひっ」教員は声を上げる。「な、なんやこれ……! け、警察……警察を呼ばんと!」彼は便器から降りると、胸ポケットから携帯電話を取り出した。割と、内面的には冷静らしい。
教員が電話をかけているあいだに、理玖は、口元を押える楓馬を洗面台の方まで連れていった。
「そんなに刺激の強い死体じゃなくてよかったね。首無しの死体とか、生首だったら、間違いなく気絶してたよ」
「な……、なんで……」楓馬の息は荒い。「なんで……理玖はそんなに冷静にいられるのさ?」
「うーん……。実は、死体マニアとか?」
理玖は冗談で言ったのだが、本気に受け取ったのか、楓馬は顔を引きつらせて後退りした。
「まじで……、き、気持ち悪……」
「ごめん、嘘だよ。そんなわけない」
「――だ、だよな……」楓馬は、ほっとしたように、大きく息を吐いた。
正常な思考を失っている人間には、刺激の強すぎる冗談だったか。理玖は反省した。もっとも、人が死んでいるという異常な事態に直面しているのに、冗談を飛ばしている自分自身が不思議だった。目の前で起こった出来事こそ冗談なのだ、という考えがどこかにあったからそういう行動に出たのかもしれなかった。
最初は、ドッキリか、誰かのイタズラなのではないかとも彼は推測した。だが、ドッキリやイタズラにしては、意味がいまいち不明である。仕掛人が楓馬だとしても、理玖の知らない人物を選ぶだろうか。それに、トイレという場所で行うというのもおかしい。高専という基準に照らし合わせて行われるのであれば、正常の範疇なのかもしれないが、その可能性は限りなくゼロに近い。
事実、理玖たちは、人が死んでいる場所に居合わせるという事故に遭ったのだ。
(事故……?)
彼は、脳の中で首を振った。脳の内部に首は存在しないので、正確には、首を左右に振る動作を想像した、と言うべきだろう。
これは、事故などではない。
事件だ。
人が死んでいるという事件。
しかし、それだけではない。
観測された事象を結合してみると、奇妙な解が得られる。
それは、殺人。
自分たちは、殺人事件に遭遇してしまったのだ。
それが、航空機で事故死する確率より低いのかどうかは解らない。
だが、確かに、それに遭遇した。
そして、様々な謎も浮上する。
挙げれば切りがないだろう……。それは、人間の思考とそのパターンにも同じことが言える。
「り……、理玖? ど、どしたの?」
「……え?」
理玖はハッとする。どうやら、完全に、自分の世界に入ってしまっていたらしい。
「大丈夫か?」楓馬が訊く。
「いや、ただ、本当に殺人事件なんだな、と思って」
「あぁ……、ホントに、嫌なもん見ちゃった……」
「たしかに、死体があるなんて夢にも思わないから、仕方ないよ。遭遇したのは、事故だったんだと思えばいい」
「癒し……癒しが欲しい……」言いながら、楓馬は制服のポケットを探って、スマートフォンを取り出した。
「癒し……?」
楓馬は何も言わずにスマートフォンを操作すると、画像を表示させる。
「桜ちゃん……」
写っているのは、楓馬の妹、桜だった。顔写真に始まり、立ち姿、制服姿、ここでは言えないような画像まで交じっている。
楓馬はそれを、本当に舐め回すように見ている。端から見れば、変態の極みの一言だ。
(盗撮までしてるのか楓馬は……。これは、妹の生理の周期まで把握してるパターンかな)
とんでもない兄貴だ、と理玖は思う。もし自分が楓馬の妹なら、こんなことをされていると知っただけで、殺意を覚えてしまうに違いない。
でも、楓馬がそれで癒されているのも事実なので、決して悪いことではないのだろう(少なくとも、彼にとっては)。
「はぁ……」楓馬は、落ち着きを取り戻しつつあった。桜ちゃんパワー、恐るべしである。
「……大丈夫?」
「あぁ……、うん。やっぱり天使だよ」
「ま、落ち着いたようならいいんだけど」
茶番劇のような会話を繰り出していると、トイレからさきほどの教員が出てきた。
「あ……、先生」理玖は身を乗り出す。
「とりあえず、警察は呼んどいたから、君らはここで待っといてくれ」
「ここで待機……ですか?」
「警察はすぐ来る言うてたから、いけるやろ?」
「まぁ……、とくに問題は無いですけど」
「先生は、他の先生に連絡をとってくるけんな」
「はい……分かりました」
理玖が頷くと、教員は足早に去っていった。
「……まるで、俺たちが犯人みたいな扱いだなぁ」楓馬は目を細める。
「あとで呼び出すのが面倒なだけだよ」
言ってから理玖は、
(緋香里は早く帰ってこいって言ってたけど、こうなった以上、帰還は難しいかな……)
と思いながら腕時計を見た。現在時刻、午後五時二十二分三十五秒。
今日は帰宅が遅くなりそうだ――理玖は、静かに目を閉じた。