サイアスの千日物語 百四十三日目 その四十四
蜃気楼の如く宙を駆け、今は鉄柱上に
孤影を晒す夜空色の影がもたらした「凪」。
それはその実、1拍にも満たぬものだった。
隊より離れ2個小隊となってアトリアを襲った
羽牙6体は瞬く間に半分となり、2隊中後続の
隊の3体は大きく翼をはためかせ、宙で踏鞴を
踏むが如く押し留まり警戒しつつ旋回していた。
防衛陣の東手前に散立する鉄柱群。そして
鉄柱群の東手前で宙を舞う羽牙本隊残数12。
先にアトリア目掛け迫ったうちの残り3体は
南手よりこの本隊に合流しようとしていた。
こうした攻めの狭間が概ね1拍弱。
要は近接戦闘における1時間区分を
彼我ともに無為としたわけだ。
鉄柱群の狭間を西から東へ流れる風が時折
鋭い音で鳴り、その先の中空では12と3の
羽牙がばさりばさりと鈍い音で翼を鳴らした。
そうして互いにやり過ごした1拍分、
1戦闘単位分の全休符の後、再び
狂想曲の旋律が高台に響き始めた。
1音目と成ったのは横殴りに突き立つ矢と
矢のもたらした短き断末魔。12に合流すべく
戻る3のうち、1体の立てたものであった。
物見の鉄塔やその支柱、さらには散在し
屹立する鉄柱群。これらの狭間を巧みに
縫って地表から不規則に挙動する羽牙へと
命中弾を出せる者などこの場には一人。
乱戦に至る前の最後の狩りとばかりに
射込まれたラーズの魔弾は計3矢。うち
2矢は貫通し近場の1体の翼手を裂いて
2体纏めて大地へと落とした。
これに僅かに遅れて続いたのが鉄柱上の孤影。
さっと振り上げたアトリアの右手からは
小さく黒い光が奔った。
黒い光とは金属片であった。右手を離れ、
高速で旋回し弧を描いて飛び行く十文字
をしたその金属片は、蛇が這うように
3から1となった羽牙へ迫る。
そして回避を許さず羽牙の左翼の付け根へと
命中し、片翼を半ば以上分断して機能を停止
せしめ飛行能力を奪い取った。
こうして防衛陣の指揮官と思しき孤影を狙い
本隊を離れた6体は全て地に墜ちた。地に
墜ちた羽牙へは隠密衆が音もなく詰め寄り
左右の翼を斬って落とす。
羽をもがれた羽牙の戦力指数は1に満たない。
よって未だ息あるものも、いつでも殺せる
状態であるとしてその場に放置された。
黒の月、宴の折が常とされる「魔」の
顕現ではあるが、それは単に人が知り得る
範囲での観測がもたらした帰結に過ぎない。
また、黒の月ではあるが宴ではない日中の
北方河川において、「魔」の化身らしき
存在が多量の屍を媒介として一時降臨した。
そういう事例も存在していた。
これを踏まえ参謀部では魔の顕現の条件に
ついて再考が成されており、発端の議論に
居合わせたサイアスの語った「界面の形成」
をはじめ、魔の顕現に繋がる要素が極力
連続せぬよう随分心を砕いていた。
一番避けるべきは一所に多量の屍を積む事。
死屍累々は魔の苗床。これは従来以上に強く
意識され、仕留めた屍は即解体するか焼却。
戦闘状況がそれを許さぬなら一旦瀕死のまま
放置という方針が、これまで以上に徹底され
だしていた。
とまれ凪として1拍。続く先手で1拍と
都合2拍分無為とした残る羽牙15体は、
これ以上は好き勝手させぬとばかりに
再び侵攻態勢を整えた。
60が15と6割強の損耗を出している。
常の野良な羽牙であれば一も二もなく撤退
してしかるべき羽牙15体だが、此度は
奸智公の意向を受けての侵攻である。
そこに元より撤退の選択肢はなかった。
羽牙2個飛行大隊残存兵力15体は、
自身らの禍つ神に尽きぬ娯楽を提供すべく
ただただ破壊と殺戮への衝動に満ち満ちて
その矛たる牙を鈍らせず鈍色に輝かせていた。
15体は獲物と見做す西の防衛陣を見やり、
防衛陣の手前に散立し侵攻を遮らんとする
鉄柱群をみやった。
そして今は鉄柱群の上に独り立つ防衛陣の
主将アトリアを睨み付け、まずはこれを。
せめてこれだけは殺さねばならぬとばかり
15体一丸となって強襲を掛けた。
散在し林立する鉄柱群はどれも人の腕より細い。
鳥ならいざ知らず人が足場とするには問題
しかない状態だ。
地表よりは1オッピ。落ちれば誰であれ
確実に痛むだろう。また近場の鉄柱までも
少なくとも1オッピ。跳躍して届くかは微妙
といえ、そもそも跳躍できるかも微妙であった。
要は鉄塔にいた先刻より足場が悪く、
攻め手には都合が良いという事だ。
15で包囲で上方から重囲し攻め立てれば
取れぬ首ではないと判断しての強襲であった。
対するアトリアは再び黒の鉄片を放った。
両の手より1つずつ放たれたその鉄片は
先刻の物とは異なり尖った棒状をしていた。
刃長は手首から伸ばした指先程。
中央に僅かな膨らみを持つ笹の葉に似た
刃は根元がそのまま柄と成り、柄頭もまた
一体形成。指一本通る程度の輪であった。
手に持って良し、投げて良し。
時に壁へと突き立てよじ登るのに用い
或いは地を掘るのにも好適す。あらゆる
用途を苦も無くこなす、それゆえに苦無。
そう呼ばれていた。
アトリアの放った2本の苦無は無回転で
できそこないの群れへと迫った。その速度は
随分緩やかなものであり、機敏で小回りの利く
羽牙にとり何ら脅威とはなり得なかった。
斜め上方から迫る羽牙らはこの2本を実に
こともなげに交わし、嘲笑と哄笑の叫びを
発しつつなおアトリアに迫った。
そして予期せぬ事象に出くわした。
ひらりとかわしどこぞへ流れて落ちるだけ。
そんなはずの苦無が突如方向を転じて側背
より羽牙の群れを襲い出したのである。
一個の鉄塊に過ぎぬはずのそれぞれの苦無は
さながら一個の意思在る生き物の如く、飛燕
の如くに閃き奔って羽牙15体を脅かした。
特にアトリアを重囲すべく回りこもうとした
固体や、通過して防衛陣へと先鞭を付けよう
と突破を目指した固体が優先的に襲われた。
2本の苦無は放たれた際の速度を失う事なく
そのまま何度も翻り空を裂き、変幻自在の
機動を成してじわじわと羽牙らの翼を
切り刻んでいく。
1体、また1体と繰り返し翼を裂かれ地上
へと落ちていく羽牙。その数が5体を超えた
辺りで完全な恐慌状態となり、アトリアの
側背を取ろうと展開する動きは絶無となった。
頃合と見たものか意思ある如き苦無は上空へ。
と、そこに防衛陣の北に横付けられたランド
カノンの放つ油球が飛来して、苦無はこれへと
襲い掛かり破砕して下方へと油球の中身を
飛散せしめた。
油球は続けて数個飛来して、2本の苦無は
これら全てを射抜き破砕した。やがて役目を
終えたものか息絶えたが如く、さながら糸が
途切れたかの如くふっつりと動きを失い
そして墜落していった。
そう、さながら糸が途切れたかのように。
中空を自らの意思で飛び交い敵を襲う苦無。
この摩訶不思議な戦慄すべき光景を前にして
徹頭徹尾冷静を保て、かつ抜群の視力をも
具えている者。
たとえば魔力の影響で視力が異様に鋭い
ラーズなどは、絡繰に気付いて笑っていた。
油球を射抜き飛散する油を浴びた事で徐々に
余の目敏き者らも気付きだした。苦無の柄頭、
その輪から尾を引くが如き煌きがある事に。
2本の苦無はやはりただの鉄塊であった。
これを意思ある生き物の如くに舞わせていた
のは、姿無き妖糸の使い手。伝説級の暗殺者。
単騎で城砦騎士級の戦略価値を有すとされ
戦場において常に自由に振舞う事を許された
ニティヤその人であった。




