サイアスの千日物語 百四十三日目 その四十一
「羽牙か? 多いな……
さっきの衝撃は『火竜』だったか」
「オアシス」を目指す「アイーダ作戦」の
主力軍、その後方でこれを率いる城砦騎士団長
チェルニー・フェルモリアが呟いた。
チェルニーは緩やかに闊歩する名馬スーリヤの
鞍上で遠眼鏡を覗き込み、北東の地平を覆う
歪な黒ずみを眺めていた。
現状主力軍は不整地を適宜迂回しつつ
ほぼ真東へと進んでいる。主力軍から見た
北方及び北東は高台で1オッピ程高い。
ただし空に起伏はない。それゆえ件の黒ずみが
当地より北東1200オッピ弱の地点を西へと
流れて往く様がはっきりとみて取れていた。
「50、いや60か。
サイアスは長弓部隊を出していたな。
相性は良さそうだが。 ……1隊送るか?」
傍らの軍馬から声がした。
「予定通りの来客だろう。問題はあるまい。
というかお前、やけに甘くないか?」
チェルニーは目元に笑みを浮かべた。
「クク、お前に言われるのは心外だがな……
それに送り先に些か誤解があるようだ。
騎兵隊も遠からず規定路に入る。
主力軍としても『中継点』の一つ
くらいは用意しても良いのではないか」
「あぁ、そういう事か」
甘いのは俺の方だったかと
チェルニーは小さく笑った。
「そうだな…… そろそろ奸智公にも
諸々露見しているだろう。
先手を打つのは悪くない。
では予備隊を送るとしよう」
中央城砦外郭南防壁より南東およそ400
オッピの高台末端、その一帯に鉄城門を中心
とした拠点を設営して敵を誘う、第三戦隊長
代行にして兵団長たるサイアス率いる
独立機動大隊「ヴァルキュリユル」。
本来は主力軍の進軍への撹乱を成すはずの、
主力軍500にとっては小規模な。されど
自隊200にとっては十分に脅威な敵勢。
中隊から大隊規模のその敵勢を相手どる
ヴァルキュリユルは、まずは「できそこない」
の機動中隊30体の撃破に成功した。
指揮所東手の広間まで侵入した最後の大柄な
3体の屍。そのうち一体の傍らに落ちていた
愛用の銘剣ウルフバルトを拾い上げて異形の
血や砂埃を振り落とし。
火男面のその口そのままにふーふー吹いて
仕上げスチャリと鞘へと戻したシェド。
その膝は今更ながらにガクガクと震えた。
異形との実戦、その極度の緊張と恐怖から
抜け、集中力も途切れてしまったようだ。
そんな様をそ知らぬ風に眺め
「よぅ、お前ぇも漸く経験者だな」
とニヤニヤ声を掛けるラーズ。
「ッッ!? どっ、どどっ! ど、どぅっ!?」
木を隠すには森の中、なのかどうか。
膝の笑いを隠そうと全身をカクカクさせ
何故かそれ以上に動揺激しく挙動不審と
なって、巧く二の句の告げぬシェド。
「……まぁそっちぁ一生『魔法使い』だろ」
「んなっ!? ぉ、お前、ぅおぃっ!!」
「あはは、それが世の為人の為だわ」
ラーズやアクラに茶化されダメ出しまで
されて憤懣やる方なきシェドは
「てかよぅ! 指示は助かったけど
内容が別々ってのはどうなんね!
俺っち混乱の極みやで!」
と先刻の怒鳴り声について憤慨し
「つまりぁ至って平常って事じゃねぇか」
「せからしか!
右か後ろかビシっとせんね!」
ビシっとラーズに指突きつけた。
戦闘状況における指示伝達。その内容での
方位への誤認は、容易に大きな危険を招く。
それでも伝達が一つきりならまだ迷わずに
済む分マシかも知れぬが、複数の伝達でその
内容が異なるとなるとなると殊更だ。
矛盾は逡巡しか生まないのだから。
そして肉薄し刹那を争う状況下で逡巡
すれば、それはそのまま死に繋がる。
よっておよそ軍隊では指示伝達における
数値や方位の齟齬は徹底的に排除される。
これらは訓練課程でも繰り返し話題とされ
各隊に入ってからも頻りに躾けられる事柄だ。
基本は二種。絶対方位と相対方位だ。
絶対方位とは地図同様、俯瞰し固定された
方位概念により指示する手だ。
専ら東西南北または北を0とした360度で
表されるこの絶対方位は誤謬を招く余地が
ほぼ無い為、戦略・戦術級の指示伝達や書状
で専らとなる。
ただし。常に目まぐるしく動きまわる
実戦状況において、常に自らを俯瞰し正しく
方位を把握できる者は稀だ。
絶対音感と同様の、言わば絶対方感を有する
渡り鳥の如き者は将兵のうちでもごく一部。
大抵は方位自身の確認に1挙動費やすことに
なり、逡巡するのと変わらぬ結果を招く。
そこで実戦状況下では相対方位を重視する。
相対方位とは自分からみて前後左右、或いは
自身の前方を0とした360度のうち如何か
といった方法における方位の事だ。
こちらは脳裏に俯瞰視点を持たずとも直観で
判るため判断が速く好まれるという事だ。
ただし相対方位にも落とし穴がある。
指示伝達者と指示対象者がそもそも
異なる方向を向いている場合があるからだ。
この齟齬を埋めるため、各々の軍隊は
絶対方位も織り交ぜた独自の基準を定めて
これを運用する。
そして多くの場合は指示対象者の立場になり、
そちらから見てどちらか、を基にして方位に
関する指示を出していた。
もっともこれは母体となる軍隊毎に異なって
くる。そのためまずは平時における基準の
共有が最重要だとされていた。
さて西方諸国連合隷下、城砦騎士団では
方位について、非戦闘時には絶対方位を。
戦闘時には相対方位を用いるべしと定め
られていた。これは連合軍も同様であった。
シェドは第二戦隊で伝令としての専門教育を
追加受講していた事もあり、この辺りは
徹底的に仕込まれていた。
ゆえにシェドはラーズとロイエによる
指示に対し、逡巡をみせたのだった。
一方。
第四戦隊は各戦隊の指揮官級な猛者の抜擢
により成立しているため、この辺りの基礎中
の基礎な事項については入隊前の大前提に過ぎ、
反復して訓練・指導される機会は少なかった。
さらに申さば四戦隊構成員は志願兵であった
割合が非常に高い。志願兵は平原の各国で
軍務を経験してきており、そちらのルールが
染み付いている例もまま見られた。
特にラーズやロイエは元々連合軍に属さぬ
東方圏で活躍した傭兵だ。騎士団流より我流
が遥かに強かろう。
ゆえにシェドはラーズとロイエによる
指示に対し、逡巡をみせたのだった。
しかし。
「あん? ちゃんと城砦の流儀で指示したろ。
そもそもお前ぇと俺ぁ、同じ方向を
向いてたじゃねぇか」
「まぁせやな!」
訝るラーズに頷くシェド。
と、サイアスらと打ち合わせしていたロイエが
「私もそうだけど? てか幹部は皆
アンタより徹底してるわよ!」
「まぁせやな! ……せやろか!?」
ピシャリと語るロイエに戸惑いのシェド。
「はぁ? 何よ」
「ラーズは『右』や言いましたけども!
あんさんは『後ろ』や言いませんでしたか!」
「言ってない」
「ぱーどぅん?」
ここぞとばかりにナン・デヤネンの
ポーズをキメるシェド。
「『よくやったさがれ』とは言った」
「『さがれ』て後ろやん!」
左半身で盛大に左手を突き出し指差して、
イギア・リィのポーズをキメるシェド。
「違うわよ!」
「ふぁっつ!?」
「『邪魔だどけ』ってことだ!」
「お、おぅ……」
そういう事であった。




