サイアスの千日物語 百四十三日目 その三十七
荒野の異形は人の世とは無関係に存在する。
荒野と平原は遠く隔たれ無関係に存在する。
ゆえに本来は人の世の神話伝承と異形との
間には何の連絡もないものだ。
「東方に『できそこない』。
数3戦力75距離40。防柵を縫い
戦闘機動。近接まで20秒」
だがそれでも、人というものは眼前に展開する
未知の脅威を、自身の知識で説明し納得して
既知の世界観の崩壊から逃れようとするものだ。
「『羽牙』本陣まで58」
だがその結果、本来不要な畏怖心や気後れが
心奥に芽生え、敵を過大評価し萎縮して結果
正気と勝機を遠ざける事がある。
「防衛陣は羽牙に斉射後防御」
「後処理はこのアトリアめに」
「良し。支援はする」
「御意」
要は敵に呑まれてしまうという事だ。
これは敵を侮るのと同様悪しき様だ。
眼前に殺到する古き魔物の気配持つ異形。
その背後の空を雲霞の如く覆い迫る異形。
これらの醸す効果とは詰まるところ、
全て人の心奥の闇に忍び寄り蝕む「魔」
奸智公爵の織り成す画に因るものであった。
ゆえに呪縛は断たねばならない。
ゆえにサイアスの声が響いた。
「ヴァルキュリユルよ臆するな!
眷属は伝説の魔物ではない!
心に付け入る魔性を斬れ!
諸君こそ伝説の英雄なのだ!」
高台のヴァルキュリユル総員は総身に
震えを覚えていた。これぞ武者震いだ。
と、その時サイアスの傍らで。
デネブの右のうさ耳がピョコリと動いて
サイアスへ近付くように傾いた。
(シラクサです。『火竜』で
羽牙を遅延できます)
デネブのうさ耳「カゥムディー」は
シラクサの声無き声をサイアスへと伝えた。
「頼む」
(了解)
サイアスは小さく頷きそう告げた。
周囲にはサイアスの声しか聞こえなかったが
これに呼応する形で策敵と通信を終えた
デネブが指揮所を出でて異形と対峙したため
特段に訝る事はなかった。
「我が勇者らよ」
サイアスは穏やかに
しかし厳として命じた。
「範を示せ」
機動中隊の生き残りにして最精鋭たる
大柄なできそこない3体は、まっしぐらに
ヴァルキュリユルの指揮所を目指していた。
もっとも狭間に防柵や大盾が互い違いに
設置されている。これらは自身らを迎撃の
矢から守る壁ともなり得るため、高い知力を
有する彼らは最大限にこれを活かしつつ、
されど恐るべき速さで本陣へと迫った。
指揮所まで5オッピ程で障害物は尽き
あとは小さな広場が横たわるのみ。
指揮所には何故だか一際輝いて見える
不思議な人の姿がある。
――アレを捧げよ――
抗い難い甘美なる神の声が心央に響く。
アレを捧げる、その術については判らぬが
自らを眷族と成して盲目的に崇め奉っている
その荒神からの仰せに否やがあろうはずもなく。
あらゆる思考は魔への憧憬、そして広間に
在って往く手を阻む数名の人の子らへの
破壊と殺戮への衝動に塗り込められていった。
防柵の狭間より赤子の鳴き声と奈落の唸りを
共鳴させ、遠雷が這い寄るように歩みでる
できそこない。まずは広場で待ち受ける
神意に背く大逆の人の子らを見た。
数は7。いずれも揃いの外套を纏っている。
漆黒の帳と真紅の灯火を棚引かせ、交差する
金の音符と銀の剣が刺繍された艶やかな外套だ。
7名は北東から南西へと緩やかに流れる
斜線陣を敷いていた。
最も北には青みを帯びた銀の甲冑が居た。
右手に鉄槍、左手に重盾。他の者らより
手前に位置し単騎悠然と佇んでいた。
次いで中央、陽光の如き金色の輝きを
兜より零す琥珀の眼光を持つ狼の如き戦士。
その背後には揃いの鎧に揃いの武器な3名。
4名揃いの武器とは、スラリと長い柄の先
その脇に繊月の如き優美なる刃を具えた戦斧。
そして最も南、最も後方には。
他と違って鎧を纏わぬ身軽な男が二人居た。
独りは小豆色の装束に身を包み
左手には小振りな円盾。右手には剣。
右手の剣は身幅の広い古式な姿を表して
剣身の中央を走る樋に刻まれた碑文が
ギラリと金色の輝きを放っていた。
一方の男は手に弓と矢。
緊張の欠片も見せず場違いなほと飄々と。
口元に笑みさえ浮かべ異形らを眺めていた。
ただしその両の眼はその場の誰より鋭利に、
誰より苛烈に異形らを射抜いてもいた。
と、異形らの背後の上空から轟々と
大気を焦がす音が流れ、やがて大地を
大きく揺らした。本城中層より放たれた
「火竜」が高台東方の低地に着弾したのだ。
それが機であった。
1オッピ≒4メートル




