サイアスの千日物語 百四十三日目 その二十九
北より降り注ぐ数十の油矢と
東よりひた走る6本の火矢。
言わば十字砲火のもたらした
岩場の手前に聳える炎の壁。
これが果たして全長1オッピに迫る
この異形の巨躯を余さず包み火達磨に
変えるに足るものかは判らない。
しかし逃げの算段に身を委ね、いざ跳び退こう
とするその往く手に、不意に炎の壁が現れた
ならば誰しも踏鞴を踏んで然るべき。
事実この異形もまたそうであった。
そして北と東の騎兵らがさらなる矢を
番えた様をも見て取って、一刻の猶予も
無い事を悟った。
北の油矢、東の火矢。どちらも単体では
脅威とはならず交わった場合にのみ致命と
成り得る。異形は然様に分析しても居た。
さらに北から迫る騎兵本隊は南へと油矢の
射線を延ばせるが、東の小勢は上体を左後方へ
捻っているため、構造上即座に南へ射線を移動
するのが困難な事をも見てとった。
そこで死兆の十字を逃れるにあたり
最も蓋然性が高く合理的であろう南方へ、
撓めた6肢を豪快に展開。一気に10オッピ
近く飛び退いて再びその身をガバリと屈めた。
「チッ、野朗奥にッ!」
本隊の騎兵の一人が舌打ちを。
「問題ない。そのまま7時方向、撃て!」
デレクの一声。一斉に飛ぶ油矢。
当のデレクはすかさず油矢とは別の箙に手を
伸ばし、火矢を抜きつつ鏃で箙の縁を擦った。
火矢の鏃、そして矢を納める箙の縁には
火打ち石が貼り付けてある。擦れば即刻
火花を発し、鏃の背後の油脂等が燃える。
城外で活動する弓兵特に弓騎兵らは、手近に
松明が無い場合、大抵こうして火矢を得る。
全武器技能値7のデレクともなればこの
火矢を4指の狭間に各2本。計6本纏めて
瞬時に番え得た。
そして配下23名の射た数十の油矢を追って
より速く、より鋭く6矢を纏めて放ち、先に
燃え盛った炎の壁の余韻に連ねて再び。
異形の側面、西手の岩場の手前へと
炎の壁を現出せしめた。
異形が南へ逃れたのは安全に西の岩場へ
跳び込むためであったのだから、これを
やられては堪ったものではない。
怒りと恥辱に満ちた咆哮を発し、再び撓めた
6肢を以て再度南へと跳ばざるを得なかった。
そしてこの頃には東に流れた女騎兵衆が
高台の斜面ギリギリを南へと疾駆し始めた。
そして右手で弓を構え左手で火矢を番えて
再び十字砲火の態勢を整えた。
嵌められた。
3度目の南への跳躍をもって
漸く異形はそう悟った。
否、とうに悟っては居たものの認めたく
なかった、そういう事かも知れなかった。
格下の人の子に手玉に取られてしまった
その事実を。
とまれ進退は窮まりつつあるが諦めるには
まだ早い。異形はむしろほくそ笑んだ。
なぜなら異形の双眸は自らの南方
50オッピ未満の位置にあるものを
発見したからだ。
それは積まれ布地で覆って縄で押さえられ、
さらには縄の端を地に杭で打ち付けられた
明確な人造の構造物であった。
荒野の最中、大回廊に只中に然様なものが
自然と存在するはずがない。つまりこれは
早くとも夜明け以降、態々ここに置かれたのだ。
何故か? 手荷物として運ぶには嵩張るからだ。
では何か? それはこの騎兵隊らのための物資。
まずそうと見て間違いはあるまい。
異形の秀でた頭脳は即時に然様に看破した。
つまりあれに近侍するかいっそあれを盾に
すれば、忌々しい矢と炎は誤射やあれへの
引火を嫌って止まる事だろう。
そして騎兵らは武器を近接用に換え
接近戦を指向するだろう。その時こそ
岩場へと逃げ込む絶好の機となろう。
そう判じた異形はこれまでの跳躍を止めた。
身を低くしたまま6肢を高速で稼働させて
矢の的を絞らせぬようジグザグの動きをも
織り交ぜて南へと。騎兵隊のために用意された
物資へと目掛け爆走を開始した。
十字砲火はなおも岩場の手前を狙っては
いたが、異形が物資へと近付くにつれ
矢張り読みどおり消極的となった。
物資の中身が何かは知らぬが少なくとも
食糧や予備の武器は含まれよう。
つまりそこから武器を得て装備し
或いは投擲に用いて抗戦の姿勢を示せば
益々撤退の成功率は高くなろう。
異形は自らの策の正しさを確信し、
追い縋る騎兵を必死に振り切り遂には
物資に取り付いた。
縄を千切り布地を裂いて木箱を砕けば
確かにそこには樽や袋、そして槍や矢
などが仕込んであった。
異形は食糧らしきものを大口に詰め込み
武器をばらりと周囲に撒いて、そのうち
槍などを数肢に引っ掴み迎撃体勢を。
その振りを整えた。
そして見た。北より殺到する騎兵隊のうち
やたらとデカい布地を背に掲げる一名が
手に小さな光辺を持ち不敵に笑んでいる様を。
一体如何なる仕儀かと訝るのが先か。
轟々と大気を焼く黒い影が迫るのが先か。
刹那、振動と灼熱、轟音と業火が視界を覆い、
異形は訳も判らず苦悶し絶叫していた。
第四戦隊騎兵隊長デレクが大回廊に至り
異形の接近を認めてより、時折懐より
取り出してはチラチラと自らの顔を覗き込む
ように用いていたこの手鏡。
これは実の所、中央城砦本城中層との
光通信に用いられていたのだった。
件の異形との戦闘を指向したデレクは、
戦況を三手先まで読んでいた。そして
その時点で既にして。
城砦の誇る対魔軍殲滅用大型攻城兵器「火竜」
による支援砲撃を要請していたのだった。
二の丸を除く岩場城砦における「火竜」の
設置場所は城砦外郭防壁の裏手となる
4箇所の兵溜まりと本城中層だ。
このうち本戦闘の現場より最も近いのは
外郭南西区画兵溜まりの4基だが、これを
動かせば異形に気取られる可能性もある。
よってこの4基の使用は避け、さらに火竜を
予感させ兼ねぬ外郭防壁上からの弓兵による
支援射撃をも、デレクは厳に禁じていた。
その上で低地からは満足に見えぬ四角錘をした
本城の中層に設置された1基に目を付け
光通信をおこなっていたのだった。
但し要請し射撃準備を整えて貰ったとて、
打ち込む座標が判らねば如何ともし難いものだ。
さらに交戦中戦闘状況の最中に実測値を計算し
送ってのけるなどという芸当は、正軍師の
中でも一握りの者にしか成しえない。
そこでデレクは一計を案じ、最初から
明確に座標の判っている箇所に照準させた。
それ即ち、作戦計画に則って設置された
補給物資の在り処である。
これなら書面で残っている。機器の調整さえ
確かなら、目視による照準は一切必要ない。
そして此度の作戦に先立って中央城砦の有する
全ての火竜の照準を再調整してまわったのは
誰あろう、第四戦隊サイアス小隊所属、
名物三人衆が一人、ランドであった。
つまり必ず狙いどおりに飛ぶ。そういう事だ。
ゆえにデレクは当初より異形に補給物資へと
取り付かせる事を主眼として企図し、戦況を
誘導していたのだった。
1オッピ≒4メートル




