サイアスの千日物語 百四十三日目 その二十一
107年の永きに渡り宴に参ずる魔軍が
踏みしめ、削り均して遂にはなだらかとなった
大湿原の西手、高台の南西な一帯を
南下してきた人の軍勢。
すなわち本合同作戦初手たるアイーダ作戦の
主力となる、城砦騎士団長自ら率いる
500の軍勢は、黒の月、宴の際に魔軍が
そうするように、進軍を留め陣を敷いた。
無論仮初の陣である。目的地には未だ程遠い。
ただ500が揃って休むには相応の仕方がある、
そういう事だった。
これで城砦を進発してから3度目の休憩となる。
休憩は15分に一度5分ずつ確実に取っていた。
自身の膂力値にほぼ等しい重装を成す
第一戦隊兵士らのうち、最も錬度の低い者が
疲れを残さず歩き通せる、それが概ね15分。
そういう算段が成されていたのだ。
身的能力の一つである「膂力」。
これは物を動かす能力を指す。値が高い程
重い物を動かせるのだが、膂力には体格の
2倍を超えぬという制限もあった。
これは膂力と体格が比例関係にあり、
ゆえに膂力の高い者ほど体格も高く
つまりは大柄で重いためである。
高い膂力はまずもって重い身体を動かすのに
用いられる。そして余剰の値を割り出すと
体格の2倍以内に収まるという勘定であった。
また身的能力の一つである「体力」。
これは膂力を継続的に用いうる能力を指す。
仮に自身の膂力の限界な積載状況の場合、
稼働時間は体力値×1分だとされる。
具体的には膂力15体力15の兵が居て
膂力15相当の装備状況である場合、支障なく
連続稼働し得るのは15分という事だ。
もしも装備が膂力10相当であったとすれば
余剰の5は割合として加算され、稼働時間は
22分30秒。概ねそういう次第であった。
とまれこの辺の算段は随行する軍師らの仕事だ。
軍師らは今は進軍停止し仮の布陣で待機する
兵士らの狭間を縫うようにして、疲労状況等
の確認にあたっていた。
愛馬にして名馬スーリヤを従者に預けた
チェルニーは、これ幸いとばかりに軍師らが
搭乗していた今は蛻の殻な馬車へと
飛び乗り、どかりと座して卓に着いた。
卓上には幾らかの品が置かれていた。
一つは参謀部謹製となる戦域図だ。
戦域図は100余年前、連合軍100万が
「退魔の楔」作戦へと進発するにあたり、
如何なる仕儀によるものか初代連合軍師長が
平原に居ながらにして描いた荒野東域図から
作戦毎に適宜抜粋拡大して作られていた。
参謀部では平素より、指揮官級の伝達物には
図解を多用していた。作戦絡みの書状には
簡素ながらも手書きの図面が付き、眷族の
情報にはそれっぽい絵がセットとなっていた。
およそ50年程前の宴の折。大層切迫した
状況でかの初代第一戦隊長たる筋肉の城、
知力5な城砦騎士ガラールに難解な作戦を
一発で完全に理解せしめた四コマ漫画の
逸話は今も参謀部の語り草だ。
騎士団ひいては西方諸国連合軍においては
平原中央の三大国家の言語を基調とした
「共通語」が採用されており、城砦兵士は
訓練課程でこれを習得し終えている。
ただそれでも字より絵の方が脳に直接刺さる
とは広く知られるところであり、とにかく
説明説得論破を愛して已まぬ参謀部一同は
こぞって自らの書状に絵図を採り入れた。
参謀部は平原4億を代表する叡智の殿堂。
さりとて叡智があっても画才があるとは
限らない。よって書状に描かれる絵や図には
随分出来に差があった。
参謀部で一番絵や図が巧いのは歴100年を
誇る超ベテラン軍師たる参謀長セラエノである。
ただしセラエノは大抵寝ていた。
次に巧いとされたのは参謀長補佐官アトリア。
人相書きが得意であり、さらに報告書を
こっそり伝奇仕立てにしてみたりと
文才も豊かであるようだ。
この二人が突出し、他は人並。中には精神に
悪影響を及ぼしそうな呪術的な何かをこさえて
しまう者もあった。
作者によって書状の質が下がるのは
望ましくない。さらに戦闘以外で将兵を
死傷せしめるのも避けたいという事で、
絵図に関しては外部に委託する例も多かった。
代表的なのはさながら活きているかの如く
精緻な筆致で眷族を描く第四戦隊のランド。
また簡素な聞き取りだけで巧みに情景を
把握し絵図として再構築する稀有な才を有する
第一戦隊所属城砦騎士。「ヴァルハラの騎士」
とも呼ばれるユニカが居た。今卓上に置かれた
地図もまた、ユニカの手によるものであった。
さて特徴的な代物は今一つある。
端的に言えばそれは羅針盤だ。ただし広く
知られるそれとは随分異なった姿をしていた。
やや厚みのある、表裏に目盛りの刻まれた
金属の枠の内側に上下を削いだ球状の容器が
自由な挙動を有したまま内接し、その内側、
某かの液体に満たされた容器の中には球に
ほぼ内接した、やや厚みのある正方形の
金属片が浮かんでいる。
目一杯の大きさの立方体、それが内接する球の
内接するさらなる立方体。その上下をごっそり
削ぎ落としたかの如きこの小振りな器具は
方位や高度、傾斜を同時に網羅的に示していた。
俯瞰すれば中央城砦そのもの。認識票とも
瓜二つな、それはそんな利器であった。
「進捗はどうだ」
騎士団長チェルニーと同じく、鬼のいぬ間に
とばかりにしれっと馬車に乗り移り水嚢で
口元を示すローディスが問うた。
水嚢の中には果実酒割りが詰められていた。
だがその果実酒割りは今は真水に近い有様と
なっていた。
水嚢には大小の湿原に繁茂する毒草薬草に
土壌や水質を浄化する機能があると判明した
事を基に開発された濾過用の固形物が入って
おり、良好な効能を発揮していた。
今回のアイーダ作戦の現場はオアシス
という事で、水質調査と飲水への利用を検討し
濾過用の固形物が多量に物資に含まれていた。
最もそれを運ぶのはサイアス大隊だ。
「ボチボチだ。ウチはな……」
片眉をちょいと吊り上げて
おどけるようにチェルニーは応じた。
事前の企図ではサイアス大隊は主力軍の
進軍経路を辿りこれを追う、そういう
段取りになっていた。
にもかかわらず。停止し小休止する
主力軍の陣営から臨める範囲には、
その姿は影も形も見当たらなかった。




