サイアスの千日物語 三十二日目 その六
軍師ルジヌの説明は続いた。
「識字とは文字への習熟を指します。文字とは記号や図形に
一定の意味を与えたもので、組み合わせて語や文を成すことで
意思を伝達する道具です。書き言葉としての言語を扱う場合、
最低限その構成要素たる文字や、それらを用いる際の規則を知る
必要があります。最も右側の組においては、まずは馴染みのある
母国語を用いて文字のなんたるかを学び、自分の名前が署名できる
水準にまでなっていただきます。それが出来次第、二番目の組に
合流しての講義となります」
「右から二番目の組においては、まずは母国語への
習熟度を高めていただきます。城砦で用いるのは共通語であるため
一見すると遠回りではありますが、言語の根幹にあたる文法や人称、
時制の概念等を学ぶには少しでも馴染みのある言葉の方が良く、
結果として近道となるのです。母国語の習熟度が高まり次第
共通語の習得に講義方針を切り替える予定です」
「右から三番目の組では共通語の識字能力を
高めることを目標とします。当城砦、及び西方諸国連合軍においては、
共通語を第一言語として採用しています。城砦内の各種掲示物や書状、
証書等はすべて共通語で記載されています。そのためこの組においては
指示・命令書の他、装備・勲功の受領書などを自力で読める程度を
目指して頂くことになります」
「最後の組については、当城砦の求める識字能力を十全に満たしている
方が揃っています。こちらの方に足りないのは軍事面の知識ですので、
講義形式でそれらの習得を図っていただきます」
ルジヌはこれだけの内容を実に滑らかかつ一息に説明してのけた。
補充兵たちはまるで珍獣を見るかのような目でルジヌを見ていたが、
ルジヌがギラリと眼鏡を光らせて睨み渡したため一斉に姿勢をあらためた。
「あぁそれから。私の傍らにいる15名については、
当城砦における士官候補生として、さらに踏み込んだ知識や戦術を
学んでいただくことになります。他四組で優秀な才覚を発揮した方
については、中途でこちらに合流していただく場合もあります」
おぉ、という声が四つの組から漏れたが、ただそれだけであり、
羨望の眼差し等が向けられることはなかった。指揮官であれ兵卒であれ、
魔や眷属にとっては等しくただの餌に過ぎないと理解していたからだった。
「では後は各組にて各個に説明を受けてください。
明日からの最大18日間、精進されることを期待します」
ルジヌのこの一言を以って、補充兵194名は5つの小集団に
再編成され、簡便な打ち合わせを開始した。再び広場に活気が戻り、
三々五々、解散し始めた。
「最大18日間、と言いましたが、
訓練課程の後半には実地研修も含まれます。
また訓練課程は補充兵の器を拡げることを目的とはしておらず、
必要な要素を詰め込んで器を満たすことを目的としているのです。
そのため伸び代が無いと判断されれば残り18日を待たずに
実戦部隊へと配属されることになるでしょう」
ルジヌは氷の視線で他の組を見やっていた。
「貴方がた15名も基本的には同様ですが、貴方がたは遠からず彼ら
179名の命を背負う立場になるのです。努々精進を怠らぬよう。
それでは本日はここまでです。明日以降は第三戦隊営舎二階の
第一会議室にて講義を行います。そのつもりで」
ルジヌはそう言うと一礼して去っていった。
サイアスはその様を見送った後、こめかみを押さえつつ溜息を付いた。
「何溜息ついてんのよ、サイアス」
傍らに居たロイエが声をかけてきた。
「あんたまさか、私がここにいるのが
信じられないとか思ってんじゃないでしょうね。
さすがの私も怒るわよ?」
まるで今まで怒っていなかったがごとき言い草だが、
サイアスは既にロイエの扱いについては心得があった。
サイアスは小袋からカエリアの実を取り出すと、ほいと
ロイエに差し出した。ロイエはすぐに大人しくなった。
「んー、あまーい。こんなの東じゃ無かったわ……」
ロイエは果実の甘みを満喫しているようだった。
カエリアの実は平原北方のカエリアでしか採れず、他国には
それなりの価値を伴って輸出されていたため、南方や東方の
人々にとっては、未加工の実を直接食す機会はかなり稀であった。
「はは、サイアスさんは完全にロイエの扱いを覚えたみたいだね」
「凄ぇよなカエリアの実。それがありゃ俺も猛獣使いになれるんか」
ロイエと共にいた大柄の男と、件の騒がしい男までもがこの組にいた。
「あんたには間違っても懐かないわよ。ってか誰が猛獣よ!」
ロイエが件の男に食って掛かった。男は即座に大柄の男の陰に隠れた。
「まぁまぁロイエ。これも何かの縁だし。
せっかくだから昼食をとりつつ自己紹介でもしようか」
サイアスがちらりと時計を見やると時刻は11時半少し前
といった所だった。早速ロイエが玻璃の珠時計に興味を示したが、
他の二人は特に反応しなかった。
時計の存在に慣れている層ということか、とサイアスは見当を付けた。
そして今の珠を出せとへばりつくロイエをなだめつつ、
サイアスは第三戦隊営舎の食堂へと向かっていった。




