サイアスの千日物語 百四十二日目 その五
城砦内郭には屋根が無い。
「蓋」がされるのは黒の月だけだ。
頭上を見上げればまずは視界の四隅にぐるりと
城壁や隔壁の篝火。さながら窓枠の如き
その奥には、銀砂をちりばめた黒の帳が覗く。
シェドは荒野の城砦に至るまで、
夜空を見上げた経験がなかった。
夜に外出した経験自体、お忍びのつもりで
酒場に繰り出し盛大にナンパし振られた
一件のみ。当人的には心的外傷の類だ。
無論情けない顛末に対するトラウマもある。
だが真なるトラウマとは、シェドに「お忍び」を
許した用人が、数十単位で首を撥ねられた事だ。
自分の軽挙一つで見知った首が数十転がる。
跳ねっ返りの躾としては実に効果覿面で
シェドはこれを機に離宮で引き篭もる事となった。
命の価値は同じではない。たった一つの
命のために、数十数百が費やされる事もある。
王族とは生まれながらに両の手に、鋏が付いて
いる生き物だ。常に往く手で触れる諸々を裁断
せねば生きていけないのだ。
極めて不本意な事由で付けられた異名のうちに
この特色に似た生き物の名が含まれていた事は
シェドにとっては最高の皮肉であった。
荒野はいい、とシェドは思う。
数十数百、いや数万数億の命を生かすために
己が一個の命を投げ打つ。平原に居た頃とは
まるで真逆の生き方がある。
大王位の継承権者たるこの命は、玉座争いの
駒として常に危険に曝されていた。だから
保身のためにうつけを装い、奇矯な言行に
走っては折角なのでそれを愉しんだ。
だがその結果不要な人死にを招くに至った。
そこで最も他に累を及ぼさぬ堅実な手として
引き篭もった。これで確かに自身絡みの
人死には大いに減ったと思われる。
だがその一方で。
引き篭もり、外部に無関心を貫き通す事で
招いた悲劇もまた、在った。王族の手に鋏が
付いているのはそれが必要だからだ。その事を
忘れてはいけなかったのだ。
人は過去へは戻れない。
命は一個、生は一度きりであり、
やり直しなどはできないのだ。
嘆く嘆かぬ以前にそういうものなのだ。
だがまだだ。まだ終わってはいない。
少なくとも今の自分には、まだ機会が
残されている。成すべきを成し、
守るべきを守る、その機会が。
シェドは見上げた夜空を忘れ、
再び大地を、前方を見据えた。
俺の往く道は空にはない。
この暗がりの先なんだ。
シェドは独り、頷いていた。
本城をぐるりと囲む動く床の傍らを、
機構を用いるより遥かに早くシェドは進んだ。
第二戦隊伝令衆の装束、特に革靴は
飛びぬけて上等で、内部底面や靴底には
弾力のある特殊な素材が用いられていた。
シェドは正体を知っている。これはゴムだ。
単なる革靴より遥かに接地力の良好な、
そして足への負担を避けるこの伝令の靴は
銘剣ウルフバルトに次ぐシェドの宝物だった。
本城北口より城内へ入へと入る。
明日早朝よりの作戦の準備にあたる資材部は
今夜が一番忙しい時期だ。方々で賑やかに
舞い飛ぶ職人や工兵の声を心地よく聞きながら
シェドは大路を南下した。
中枢区画に至ったシェドはそのまままっすぐ
中央塔入り口を目指す。中央塔の入り口は
北に面して一つきり。
入り口の歩哨の担当は兵団構成員だったり
騎士団長の供回りだったりまちまちだが、
この時間は騎士団長の供回りが。すなわち
彼の所領たるフェルモリア第一藩国イェデン
からの侍従が担っていた。
元来中央塔に暮らす騎士団長個人の家臣団は
城砦騎士団に属してはいないのだが、3年の
任期を4年も勝手に延長して居座る騎士団長
チェルニーは当然の如く軍務に就かせていた。
彼らは騎士団長の甥であるシェドの事を
当然よく知っている。騎士団流ではなく
フェルモリア流の敬礼をおこなった。
「これは殿下、ご機嫌よう」
「殿下やめーや! 俺っちシェドやで!」
騎士団長の家臣団が騎士団の軍務兵務に
当たる際は、城砦兵士長相当官となる。
要は同格という事で、そういう対応を
シェドは求めた。
「まぁまぁ。主上に御用ですか?」
と笑う歩哨ら。
相手が主同様気さくな上
主同様お困り様ゆえもとより気安い。
「いあ普通に伝令やで。
参謀部に用があって早めに来たっちゃ」
「そうですか。ではお気をつけて」
「??」
シェドは不審げも歩哨らは笑って応じず。
シェドは不承不承中央塔に併設されている
参謀部の施設へと向かった。
今や押しも押されぬ第四戦隊公式の伝令
であるシェドは、任務柄参謀部へと赴く
機会も多かった。
よって中央塔の歩哨ほど気さくではないに
しても、あぁこいつか、程度には顔パスが
効く、筈であったが、
「どちら様ですか?」
といきなりの「挨拶」を受けた。
「ほ? 俺俺! 俺っちやで!」
とまったく普段の調子のシェド。
「ふむ、詐欺師ですか?」
と小首を傾げる受付のローブ姿。
その女性軍師はすぐに手招きし、
参謀部詰めな歩哨を呼び寄せた。
騎士団長直下な参謀部構成員もまた
城砦騎士団の兵団に属してはおらず、
歩哨は兵団の派遣であったり中央塔の
騎士団長の家臣団であったりとまちまち。
もっともシェドには間の悪い事に
今は兵団より派遣の新兵であった。
「どうかしましたか軍師殿」
「不審者です。拘束を」
「ハッ」
「ファッ!?」
呆気に取られるシェドをさっさと
捕らえにかかる歩哨の新兵。
だがシェドを捕らえるには
まるで技量不足であり、シェドは
濡れ手に踊る鰻の如くヌメヌメと避けた。
「ヌゥッ、おのれ面妖な!」
とまさかの抵抗に顔真っ赤な新兵。
一方の軍師は
「……その動き。
もしやヌメヌメ饅頭ガニ……」
と正体に思い当たる節が在った。
「ヌメヌメちゃうわ!
振られも却下じゃい!!」
大いに不条理を訴えるシェド。
「失礼、饅頭ガニさんでしたか」
ニコリともせず頷く軍師。
どうやらシェドが火男面を付けて
いなかったため、誰だか判らなかったらしい。
「シェド! シェド・フェル!
りぴいたふたみぃ!」
「嫌です」
極力遠ざかりつつ手短に一言。
この対応に関しては
まったく常の通りであった。




