サイアスの千日物語 三十日目 その二十
「なんか、とんでもないことになってんな……」
西方からサイアスの様子を見守っていた第四戦隊の兵士が言った。
「あぁ。しかも微かに歌声が聞こえてこないか。
……あいつどういう神経してるんだ」
「判らん。判ってしまったらヤバい気がする」
兵士たちの呟きに続いて、
第二戦隊の兵士長アッシュもまた感想を漏らした。
「こうして眺めている分にはいいが……
俺が大ヒルならマジギレしそうだ」
「あぁ、あんた沸点低そうだしな」
「すると大ヒルはあんたより人間出来てるってことか」
「……」
「まぁ挑発してるって可能性は高いな。
何にせよ見守るしかないか……」
アッシュの指摘通り、大ヒルの腸は煮えくり返っていた。
それは挑発を受けたと感じたからではなく、
まして歌唱力や選曲が気に喰わなかったためでもなかった。
歌声による撹乱が極めて効果的だったためであった。
大ヒルが生きた地上の獲物を探る際、最も活用するのは聴覚であった。
足音や車輪の音が振動として地面や水面に伝わるのを敏感に察知し、
それによって獲物の位置や動きの向きを予測し、攻撃していた。
兵士たちの足音は規則正しく力強いため、大ヒルにとって
位置や指向を特定するのは容易であったし、
馬蹄や車輪の音も同様であった。
だが今川縁にいる獲物は、足音が軽く動きが捉えにくい上、
地上には奇妙な音が響き渡っており、
その足音すら捕捉が困難になってきていた。
さらにわずかな情報を頼りに水面に飛び出しても、
常と異なり竦みも振り返りもせず即座に逃げるため、
打ち落としがまるで当たらないのだ。大ヒルの怒りは心頭に至り、
もはや軽く叩いて肉と汁を喰らうより、喰らう部位が無くなってでも、
潰して殺すことを優先すべしという考えに至っていたのだった。
上機嫌で熱唱していたサイアスは、
大ヒルの攻撃が徐々に滞りつつあるのを察知していた。
そろそろ我慢の限界だろうか、と見て取ったサイアスは
歌い上げる声はそのままに、そろりそろりと川縁から遠ざかっていった。
デレクも気配を察したようで、振り回すロープをさらに加速させ、
甲高い音を鳴らし続けた。
サイアスの歌が二番の終盤に至り、
ようやくクライマックスを迎えようというその時、
ドパァン。
と爆発にも似た特大の音と飛沫を立てて大ヒルは跳びあがった。
それは魚が水面に跳ね上がる姿に似ていた。
川や往路と並行になった大ヒルは、
その巨体の総てを宙に曝して襲い掛かってきた。
それは薙ぎ払いや体当たりといった生半なものではなかった。
往路そのものを覆い尽くし地上の悉くを圧殺せんとする、
盛大窮まる押しつぶしであった。
打ち落としよりもさらに高く跳んだ大ヒルは
照り付ける陽射しを遮って、付近一帯に暗い影を落とした。
サイアスとデレクは大ヒルの跳びあがりに合わせ、全く同時に動いていた。
サイアスは一拍目で全力疾走を始め、
川から15歩といった位置にまで逃げたところで
影を完全には振り切れないと悟り、前方へ跳びあがりつつ
背後へと振り向き、迫り来る大ヒルの巨体に強撃を放った。
渾身の強撃は間近に迫っていた大ヒルの胴を捉え、
剣を叩き付けた反動で跳ね上がった身体は大ヒルの影から完全に離脱し、
巨体の下敷きとなる運命からは逃げおおせた。
だが無理な姿勢で全体重を乗せたせいか、それとも寿命が来ていたのか、
騎士団の帯剣はゴッと鈍い音を立てて切っ先から拳二つ分程の位置で折れ、
そこに地面で弾んだ大ヒルの巨体がさらに押し寄せた。
それは押しつぶしそのものに比べれば遥かに軽微な打撃ではあったが、
華奢なサイアスを吹き飛ばすには十分なものであった。
サイアスは咄嗟にバックラーで大ヒルの表皮を擦るように殴り、
その流れで身体を横方向に回転させた。
これにより全身への直撃だけは避けたものの、
大ヒルの巨体に弾かれ、錐揉みしつつ南へと吹き飛ばされていった。
サリットが、続いて左肩の板金と小手が吹き飛び、
左のブーツの膝当てが吹き飛んだ。たっぷりと滞空時間を得て宙を舞い
あとはぐしゃりと地に叩き付けられるだけ、となったとき、
横合いからぬっと大男が飛び出し、吹き飛んでくるサイアスを受け止めた。
大男は衝撃で地面を滑るように数歩押し出されたが、
見事に被害を最小限に食い止めてのけた。
サイアスは即座に立ち上がろうとして転倒し、
舌打ちしつつ片膝立ちになり、振り返って大男に頭を下げた。
「ありがとう御座います。お陰で助かりました」
随所に真新しい傷のあるプレートメイルに身を包み、
羽根付き兜をかぶったその大男は微かに笑い、言った。
「いや、いいんだ。よく部下を護ってくれた。後は任せてくれ」
そう言うと、第二戦隊の城砦騎士ヴァンクインはグレイブを手に、
雄たけびをあげて大ヒルへと殺到した。




