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サイアスの千日物語  作者: Iz
序曲 さらば平原よ
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サイアスの千日物語 三十日目 その十九

サイアスは先刻まで3つの首なしの屍があった付近、

丁度川と往路が北東へと傾いた、ゆるやかな曲がり角に着いた。

ここならばディードを巻き込まずに済むだろうという判断だ。


前方の川面は黒々と淀んでおり、時折赤い筋が浮かび上がっていた。


いる。


サイアスはそう確信し、川から5歩程の所をゆるりと歩き始めた。

これは丁度、サイアスたちが乗ってきた馬車の

川側の車輪があった距離に近かった。


周囲に物音一つなく、淀んだ川はせせらぎの音も発してはいなかった。

高くなってきた初夏間際の日差しが往路と水面に照りつけ、

荒野ゆえか暑さこそ感じないものの、高まった神経をジリジリと

焼き上げられているような錯覚を覚えた。


サイアスは西から東へと歩きつつ、手早く地形の確認をした。

往路自体は平坦で、所々に破片や残骸が散乱する程度。

移動の障害にはならないだろう。ゆるやかに北東へと曲がって

狭まっているが、全体としてはサイアスの足で30歩程度の

幅と目測できた。


故郷での特訓に使った畑より、少し広い程度かな、

とサイアスは思い出していた。あの時は伯父の槍に

打ち据えられつつ、必死で回避の訓練をしたんだったな。

せっかくだからあの時の図形、ここにも描いてみようか。

そう思い立ったサイアスは、今いる付近を一枚の図面とみなし、

川の中心から放射線状に伸びる線、

個々の線に一定の角度で伸びる線、

それらに接する円など、頭の中に鮮明に描き出した。


程なく、サイアスの脳裏には無数の線と円を持つ

幾何学的な図面ができあがった。

さらに言えば、眼前の光景を見据えつつも

自分を含めた周囲を上空から俯瞰した、

客観的な第三の視点をも構築してのけた。

伯父にして元城砦騎士であるグラドゥスがサイアスに授けたのは、

単なる回避技術ではなく、もっと高度なものだったようだ。


水面の黒さがさらに増した気がした。

横目でちらりと水面を見つつも、サイアスは平然と歩いていた。

先日の眷属「できそこない」との戦闘前、

斥候と思われるできそこないたちは

輸送部隊の騎士たちの視線に敏感に反応し姿を隠していた。

この大ヒルにもそういう特徴があるかもしれない。

そこでサイアスは「見て見ぬふり」をすることにしたのだった。


静寂は不意に破られた。

盛大に水飛沫をあげ、大ヒルがその姿を現した。

不意に側背から大きな音がすれば、

普通、人はまず竦み、振り返り、そして判断する。

大ヒルは側面、または背後から大音を立てて登場し、

相手の竦みと振り返りの硬直を利としてその巨体を叩きつけ、

餌食とするのを得意としていた。

そして今まさに新たな餌食を得ようとしていたのだ。


大ヒルは水面高くにその鎌首をもたげた。

サイアスはそれを見ようともしなかった。

大ヒルは奇襲の成功を確信し、巨体をサイアスへと打ち下ろした。

だが、もたげた鎌首が振り下ろされるより速く、

サイアスは前方へと駆け出していた。


距離にしてほんの数歩。

だが生死を分ける数歩だった。

サイアスの先程まで居た位置を

ずしんと地響きを鳴らして大ヒルが打ち据えていた。

サイアスは前方へ、次いで右方へタタッと跳んで向き直り、

大ヒルの巨体を観察した。


身幅は概ね3頭立ての馬車と同等、高さは大人よりやや高い程度。

やや横長な形状だった。縦へのうち下ろしで乗り出した部分は

川から10歩程度の位置にまで届いている。全長は倍近いと見ていい。

大ヒルの先端部分には吸盤のような円形の器官が付いていた。

円の内側には無数の歯が何重にも渡ってびっしりと付いており、

どうやらこの器官は口らしかった。

大ヒルは身体を左右に振りながら、ずるずると川へと戻っていった。


サイアスは大ヒルが水中に戻っていくのを目で追いつつ、

脳裏では冷静に分析を進めていた。その結果、

大ヒルの攻撃を誘うには川から10歩以内の距離をうろつくこと、

大ヒルの飛び出しから打ち下ろしが決まるまでに概ね2拍かかること、

最後に、この攻撃をかわすには

飛び出した時点での立ち位置から東西に6歩以上移動すること、

との結論を得て、竦んだり振り返ったりしなければ

回避し続けることは困難ではないとの判断に至った。

高い知力、そして非常に高い精神力の賜物と言えた。


サイアスは再び歩き出した。今度は東から西へと、鼻歌交じりでだ。

鼻歌は静まり返った往路によく響いた。それに気をよくしたサイアスは、

大ヒルに音楽を鑑賞する気があるかどうかは関知しないが、

どうせなら、と鼻歌をやめ、剣をゆらゆらと振って調子を取りながら

本格的に歌いだした。

歌いあげるその曲は、川の乙女と若き騎士の悲恋の物語。

もはや完全に常軌を逸した精神力と言えた。


貴族の令嬢たる母の影響で、サイアスは幼い頃から

歌唱や演奏は得意だった。時に朗々と、時に物悲しく歌い上げつつも、

大ヒルが飛沫を上げて飛び出す度に、あっと言う間に加速して逃げ、

なおも歌い、歩き続けていた。


往路と湿原の境目辺りで飛び出す機会を伺っていたデレクは、

ぽかんと口を開け、我を忘れて眼前の光景を見やっていた。

こいつは底抜けだ。父親以上かも知れない、などと思いつつ、

それでもすぐに気を取り直して、右手のロープを長く垂らし、

結び付けた短剣を先端として、騎馬の側面で縦に旋回させ始めた。

ひゅん、ひゅん、というロープの空を切る音、

時折起こる水音とずしん、という地響き。

そしてサイアスの歌声が、北の往路を劇場へと変えていた。

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