サイアスの千日物語 三十日目 その十一
物資と5名を載せた馬車は、
一つ目の狼煙を目指してやや北東へと進んでいた。
城砦への帰還を拒み、啖呵を切って乗り込んだ兵士長アッシュは、
手持ち無沙汰に馬車の荷台を見渡した。すると真新しい鎧に身を包んだ、
まだ歳若い兵が居る。第四戦隊はベテラン揃いと聞いていたが、
と気になったアッシュは声をかけた。
「随分若いな。新兵か?」
「いいえ。入砦式待ちの志願兵です」
「何!? 新兵ですらないのか。 ……大丈夫なのか?」
徐々に左手に近づいてくる川を見つめながら、
サイアスは問い返した。
「何がですか?」
「何がってお前、訓練課程すら済んでないんだろ」
アッシュは絶句した。
「はぁ」
サイアスは適当に受け流すことにした。
今は敵の気配を探るので手一杯だったのだ。
「兵士長さんよ。お言葉だがな」
馬車に同行していた第四戦隊の兵士が言った。
「そいつはこれで二戦目だぜ。眷属だって仕留めてる」
「何だって!?」
アッシュはさらに驚いた。
下手をすれば少女にすら見えるこの少年がまさか、
という思いがあった。そしてそれがはっきりと顔に出ていた。
それを不快に感じた兵士の一人が
「ま、あんたの部下よりは使えるさ」
と言い返したため、それを聞いたアッシュもまた、
「……」
と一気に不機嫌な顔になった。
当のサイアスはそうしたやりとりを気にも留めず、
さらに川を見つめていた。城砦から見て一つ目の狼煙が
目と鼻の先に見え、前方には隘路の入り口が迫っていた。
湿原からのせり出しを受け、馬車は東から西へと流れる川のすぐ脇を、
ほぼ並行して東向きに走っていた。黒々と淀んだ川の流れは
朝の陽射しにもなお暗く、もはや漆黒といって差し支えないものだった。
何か大きなものが蠢いているような、そんな印象をサイアスは受けた。
そして欠片も空気を読まず、サイアスは思ったことを口にした。
「この川、黒過ぎませんか……」
「ん? ……確かにな、何か…… いるのか?」
兵士たちも不審に思い始めたそのとき、アッシュが叫んだ。
「いかん! 川から離れろ!」
その声を待っていたかのように、川の水面が一気に膨らんだ。
それはまるで、巨大な漆黒の蛇だった。派手に水飛沫を上げ
馬車よりも遥かに高く持ち上がったそれは、時化の高波のごとく
その鎌首をもたげ、馬車目掛けて打ち落とそうとしていた。
「ハーネス!」
サイアスは叫ぶと同時に抜刀し、馬車と馬車馬とを繋ぐ
革のベルトに斬りかかった。第四戦隊の兵士2名は瞬時に意図を察し、
戦斧と剣で後に続き、馬車馬と荷台を切り離すことに成功した。
挽き手を失った馬車はつんのめって転倒し、積荷の一部と
乗員は激しく往路へと投げ出された。また急に荷が軽くなった
馬車馬は一気に加速し、4頭のうち2頭がそのまま往路を東へと
駆けていった。
そして馬車本体と馬二頭の上には、ぬめりと光る巨大な黒の物体が
打ち下ろされた鞭のように圧し掛かり、バキバキと盛大に音を立てながら、
馬車と積荷の大半、そして2頭の馬に巻き付き、
川へと引きずりこんでいった。
水面は波立ち無数の赤い泡が浮かんでは消え、暫しの後、静かになった。
かろうじて難を逃れたサイアスたちだったが、振り落とされた衝撃で
荷台の兵士1名が足を痛め、また馬車を操っていた1名が
巨大な黒い物体が身体をかすめたことによって、
左半身を手酷く傷つけられていた。
兜は吹き飛び左腕と左足はねじまがり、潰れた鎧が胴に食い込み、
危険な状態となっていた。今なお無事と言えるのは、
サイアスと兵士1名、それにアッシュだけだった。
無事な3名は負傷者2名を湿原側まで運び、治療技術を持つアッシュは
応急処置を始めた。その表情は曇りに曇っていたが、
口に出しては何も言わなかった。
自分はあの化け物の存在を知っていた。にも関わらず、
注意を促すどころか何一つ警戒もしていなかった。
そうした思いから、激しい自責の念、嫌悪感、後悔といった
負の感情に支配されていたのだ。
ああ、この有り様は自分のせいなのだ、と。
兵士長アッシュが治療しつつも感傷に浸っている間、
サイアスと兵士1名は迅速に動いていた。まずは周囲の敵影を確認し、
往路に散らばる積荷から追加の武装を確保し、動かせるものは
湿原側へ動かした。明確な敵意を以って先手を取られた以上、
次なる一手は確実に来る。二人はそう確信していたのだった。




