サイアスの千日物語 四十六日目 その四十八
初見の敵への初手の結果として
少なくない損害を蒙ることとなった大口手足増し増しは
大きく東へと跳び退り、追撃を警戒しつつジリジリと動いていた。
功を焦って詰めを誤る程オッピドゥスは未熟ではなく、
こちらもまた距離を取って態勢を立て直し、
ただ覇気のみを敵へと叩き付けていた。その様はまさに
悠然として聳える城砦のごとしであった。
一方的に手傷を負う羽目となった大口手足増し増しではあったが、
その代価として幾らかの決定的に有用な情報を手に入れていた。
すなわちこの人型の巨躯は格下ながらも恐ろしく守備に秀でており
正面切っての正攻法ではまず、返り討ちに遭うであろうこと。
そしてこの人型は重厚な外見に違わず非常に質量が高く、
その挙動は自身に比べ遅いか、もしくは守備を優先するために
先手の優位を捨ててでも後手に回る傾向があるということ。
さらに今一つは表面が高温であるため、迂闊に攻め掛かれば
こちらが自傷する羽目に陥るのだということ。
負傷し激高し絶叫しつつも脳裡は冷静に働かせ、
こうした分析を終えた大口手足増し増しは
間断なく思案しすぐさま解法として
次なる一手を弾きだしていた。
とその時、東方から断続的ながら規則正しい
明らかに天然自然の産物ではない振動音が響いてきた。
その振動音は微かではあったが鋭く、その背に刃を隠し持つ
暗殺者のように、随分と押し殺した風であった。
大口手足の胴体をくまなく覆う艶やかな黒い毛並みは
触覚器官を兼ねていた。大口手足増し増しにおいても
これは同様であり、胴背部のみをびっちりとへばりつくようにして
覆う黒々と脂ぎったその毛の尖端で、東方より迫る襲撃者の放つ
微細な振動を疎漏なく感知してのけたのであった。
無数の黒い触覚はこのように告げていた。
東におよそ15オッピの地点に14の振動源あり。
うち2つは一塊であり、よって計13の物体が
自身目掛けて迫っている、と。
押し殺したような音の群れとは、やや下り坂となっている
東方より迫る、サイアス率いる伏兵部隊であった。
息を殺し、足音を殺し、殺気さえ極力殺して密やかに
着実に、オッピドゥスとの戦闘に興じる大口手足増し増しの
その背後へと迫っていたのだった。
だがサイアスらの死角と虚を突く決死の奇襲攻撃は
音紋索敵能力を持つ大口手足増し増しにとって
児戯に等しいものでしかなかった。
大口手足増し増しはほくそ笑んでいた。
わざわざ向こうから好機がやってきた、と。
オッピドゥスへとの一戦を経て大口手足増し増しが
見出した一手。それは以下のようなものだった。
仕掛ける風を装って後手を好むオッピドゥスを
守備に専心させてその動きを封じ、
虚を利して距離を保ち、時間を稼ぐこと。
大ヒル程ではないが大口手足もまた高い治癒能力を
有しており、失われた腕も時間さえかければまた生えてくる。
奸知公爵の声は既に途絶えて久しく、どの様に振る舞うのも
自らの勝手となれば、食い散らかせるだけ食い散らかして
逃げるが上策とも見做していた。
そして今一つは、白熱するオッピドゥスの装甲へと
直接触れずに済むように、細かい敵から武器を奪い
それを用いて攻めかかることであった。
武器を持った雑魚の群れがわざわざ向こうから
来てくれるのであれば、これほど有難いことはない。
数こそそれなりだがまるで勝負にはならぬ烏合の衆だ。
攻め手としても自身より遥かに強大な相手に
素直に接敵するとは考えられず、十中八九、一定距離から
武器を投擲してくるだろう。中には突進してくる者もいるかも
しれないが、大半は一撫でで砕けるような相手だ、何とでもなる。
うまく眼前の巨躯の虚を突き振り返ることさえできたなら、
容易に対処し武器を奪い、戦局を覆し得るだろう……
大口手足増し増しは自らの企図した一手をもとに
そのように判断し、西へ向かって大きく身を沈め、
前方へと飛び掛かるふりをした。
炎の壁を左手に西方から、手負いとはいえ本来格上の相手であり
自身に匹敵する巨躯を誇る大口手足増し増しへと
ジワジワにじりよっていたオッピドゥスは
敵の取る挙動に敏速に反応し、すぐに足を止め守備を固めた。
これはまさしく大口手足増し増しの企図に沿った動きであった。
大口手足増し増しはしたりとして後方へ、
地を這うように低く素早く東方へと跳び退り、
着地と同時に反転して振動音の迫る東を睨み付けた。
振り返った大口手足増し増しの東前方およそ
10オッピといった辺りには、表情に闘志と鋭気と
そして驚愕と絶望を浮かべた錐行陣を敷く12の歩兵がおり、
その中央後方には一騎の騎兵の姿があった。
その騎兵とは先刻まで北方におり、炎の壁を挟んで対峙して
こちらの仕掛けた呪詛による精神攻撃を看破し打ち破り
あまつさえ天を衝く程に士気を高め
死に掛けの駄兵を勇壮なる尖兵へと変えてみせた、
小賢しく憎むべき敵の将であった。
大口手足増し増しはこれら哀れな餌食の群れに向かい、
上体を起こし腹に宿した人面を露わにして
破壊への愉悦と憤怒、殺戮への狂喜と鬼気が渾然一体となった
げに悍ましい笑顔を向け、地の底より響くような哄笑を放った。




