サイアスの千日物語 四十六日目 その四十五
遂に全貌を露わにした上位眷属・大口手足増し増し。
その威容に展開する全兵は言葉を失っていた。
その姿が余りにも生々しく人面であったからであり、
その挙措が余りにも禍々しく人間的であったからだ。
夜空にただ点在する星々を恣意的に結んで星座に仕立てたり、
微かな起伏や陰影を人影に見違えて恐れ慄いたりと、とかく
人は物を擬人化したり、既知の存在で代替し認識しようとする。
だが眼前のこの巨躯は明確に人の腕と目鼻口を有しており、
否定しがたい分一層強い忌避感と拒絶感を想起させていた。
そしてこの眷属が発するすすり泣きの声と呪詛の叫びが
先刻までの自分たちの取った行動にあるのだという
人間的な発想での因果関係を受容したせいで、
兵士たちはいたたまれず闘争心を殺がれていた。
すなわち子を殺されて怒る親に何の非があるのか。
自分たちは罰せらるべきことをした、殺されても文句の言えぬ
状態にある、と。嘆き悲しむ母親を前に倫理観や惻隠の情を抱き、
復讐されるだけのことをした、明確な敵意と殺意の理由がある、
そういった感情に囚われ、他の視点を持つことができなくなっていた。
ともあれこうして竦み、たじろぎ、項垂れる兵士らを睥睨しつつ、
嘆き悲しんでいるはずの大口手足はニマリと眼を細め品定めをしていた。
どれから八つ裂いてやろうかと。どれから喰ろうてやろうかと。
と、そこに北方から目の覚めるような音声が響いた。
美しくも苛烈なその声は、その場のあらゆる者の耳に、
いや魂に直接、こう響いていた。
「思い出せ! 我らが何故、荒野に居るのかを!
思い出せ! 我らが何故、戦うのかを!
そう。平原に在る人の世を、魔物が襲うのを防ぐため。
故郷に暮らす愛しき者を、その身に代えても護るためだ!
我らは一人残らず変わりない!
覚悟を決め、自らを投げ捨て、人のために戦う者だ!
思い出せ、その覚悟を! 思い出せ、大切なものを!
恐れを捨てよ! 迷いを捨てよ!
勇者たちよ! 護るべき者のために剣を取れっ!!」
敵の威容に呑まれ、罪悪感に囚われて
自己嫌悪的な虚無感に陥っていた兵士らは、
その勇ましく美々しい声を聞き、はっと我に立ち返った。
単に自分のためであれば心折れ、諦めたかもしれないが、
人のため、護るためであれば投げだせず、投げ出さない。
詩的な韻律に富んだ苛烈な文言に機微を潜ませ巧みに人心を掌握して
サイアスはその鼓舞激励で再び兵士らに戦意を取り戻させた。
兵士らは目の覚める思いで確信した。まだ自分たちにはできることがあり、
まだ護るべきものがあるのだと。気を取り直した兵士らは
先刻までの自身の呆け振りに歯ぎしりしつつ眼前に迫る巨大な敵を睨み返した。
「三軍は気を奪うべく、将軍は心を奪うべし。
流石は上位眷属、力攻めだけではないということですね。
そして流石は兵団長閣下。
すぐに奪われた気勢を取り返し、
さらに諸兵の心嚢に烈火を焚きつけた。
やはりこの方は軍師ではなく将。
かつての御父君を見るようです……」
最も北に位置する本陣でサイアスの檄に耳を傾け、
深く頷いてルジヌがそう言った。
上位眷属大口手足増し増しは、極端な変容で兵士らの虚を突き、
脆くなったその精神に自らの人間的な容姿と叙情的な挙措を活かして
罪悪感や忌避感、厭戦感といった負の感情を植え付け、
戦闘不能にしようとしたのであった。
つまりこの上位眷属の発していた不気味な不協和音や呪詛の声は
その実呪文の詠唱の様なものであり、要は魔術の類を用いていたのだった。
しかし既に人外の域にある精神力を持つサイアスにはこれが効かず、
すぐさま味方に掛けられた精神を蝕む魔術を打破し、
再び戦意を取り戻させた上、当初以上に士気を上昇せしめた。
その音声と挙措で味方を鼓舞し、戦地へ赴かせ死闘へと誘う、
まさに戦乙女か聖騎士かといった在り様に
歴戦の軍師ルジヌもまた、在りし日の武神ライナスの姿を重ねていた。
見た目はまるで違っても、やはり武神の子なのだと。
「フッ、こうでなくちゃな。
主を定めずさんざ戦場を渡り歩いてきたこの俺が、
本気で仕えようってくらいだからなぁ」
本陣にまで下がっていたラーズは
そう言ってニマリと笑い、
「ランド。一手仕掛けるぜ。準備しな」
と、英雄叙事詩の主人公を仰ぐがごとくに
サイアスを見守るランドへと声を掛けた。
「お、おっと。了解! 何でも言って」
そうして二人は何やら相談を開始した。
サイアスの烈火の如き檄により、蜘蛛の網のごときその術を焼かれ
獲物の全てを横取りされた大口手足はその憤怒を欠片も隠そうとせず、
奇怪な音声を発しながら近場に落ちていた幼体の燃えカスを引っ掴み、
炎の壁の向こうで悠然と味方を鼓舞するサイアスへと投げつけた。
そもそも大口手足増し増しは自らの産んだ幼体に何の感情も
わだかまりも持ってはいなかった。元々大半が共食いし、
或るいは生み出した大口手足増し増しそのものに食われ、
数を減らしつつ大きくなるのだ。非常食程度の認識でしかなかった。
そもそも人ではない眷属に人の抱く親愛の情なぞ在る訳もなく、
兵士らは惻隠の情を以て勝手に斟酌し、そこに付け込まれていただけなのだった。
焼け焦げた身をさらに火に撒かれながら飛来した幼体の屍。
しかしサイアスとミカはこともなげにこれを避け、
「見よ! 眷属は眷属、人ではない!
屍とはいえ自らの子を、敵に投げつける人の親がいるか!
人と思うな! 見掛けに騙されるな! これは明らかに人の敵だ!!」
とさらに兵士らを焚きつけ、兵士らはこれに雄叫びで応えた。
威容と呪詛で恐怖と消沈をまき散らす大口手足増し増しと、
麗貌と勇声で義憤と戦意を高揚させるサイアス。
一言で言えば、まるで役者が違っていた。
そうして分が悪いと悟ったのかどうか、
大口手足はその武威に訴えるべく戦闘態勢を取り始めていた。




