サイアスの千日物語 四十六日目 その三十五
「見掛けんナリだな……」
オッピドゥスは重く低く、そう言った。
本陣の東寄り、載ってきた貨車の南手に鎮座した
オッピドゥスは、貨車から取り出した、並みの兵士の
腕程もある特大の遠眼鏡を用いて南方の異形を眺めていた。
オッピドゥスは再び貨車へと手を伸ばし、大樽の如き
器を取り出してグビリとあおった。どうやら専用の杯らしい。
四頭立てのこの特大な貨車には、武装に限らずその巨躯故に
全てが特注の専用品となるオッピドゥスのための備品が
数多く詰め込まれているようだった。
「ルジヌよ。どうだ?」
オッピドゥスは自身のすぐ右傍らで両目で覗く形式の遠眼鏡を
眼鏡の上からあてがって異形を観察するルジヌへと声を掛けた。
「目視した経験の無い個体です。
情報を照会します。今暫しお待ちください」
そう言うとルジヌは脳裡の膨大な情報から
眼前に厳然として在るこの異形についての情報を検索し始めた。
サイアスはその様を横目で見やり、自らも腰のポーチから
遠眼鏡を取り出してオッピドゥスの貨車の御者台に上り、詳察を試みた。
それは、一言で言えば樹木のようだった。
黒々とした太い幹の如き円筒の上部から複雑かつ
多岐に分かれた枝を出す、冬枯れした樹木の様な様相を呈していた。
だがこの存在には樹木と決定的に異なる点が複数あった。
上部の枝別れした部位が見る間にグネグネと複雑に柔軟に揺れ動き、
まるで風に靡く草か波間に揺れる海藻かといった風情であること。
そして僅かずつではあるがしかし着実に奇岩の狭間を抜け、あるいは
奇岩を薙ぎ倒し押しのけ乗り越えてこちら目掛けて進んで来ていること。
さらには全体としておよそ樹木らしからぬ毛艶の如き黒光りした光沢を放ち、
遠目にも瞭然たる禍々しい気配を纏っていること。
こうした稀有な特徴が誰の眼にも明らかに見て取れた。
先刻ラーズが指し示した段階ではその全貌のうち
専ら上部がゆらゆらと揺れて垣間見えていたのみであったが、
その後さらに北へと迫るにつれ、大きさについても明らかになってきた。
先の襲撃においてできそこないや大口手足が奇岩群から姿を見せた際、
その背丈はできそこないが奇岩の半分程、立ち上がった大口出足は奇岩と
同じかやや大きい程度と見えていた。一方今迫りくるこの異形は奇岩より
明確に二倍以上は大きく、そこから逆算して概ね家屋の三階分の高さに近く、
丁度オッピドゥスよりやや大きい程度の全高であるように推測された。
サイアスは遠眼鏡から目を離し、周囲の兵たちの様子を見て取った。
ルジヌやオッピドゥスといった例外中の例外を除けば、
目を眇めて眺める者は動揺し、遠眼鏡で覗く者は狼狽して
この未知の脅威に恐怖感を抱いている風情であった。
そこでサイアスは一計を案じ、
「大きいですね。1.5オッピくらいかな」
とその様にしれっと表現した。
言い知れぬ緊張状態にあった周囲の兵たちはその台詞に咽せ、
あるいは耐えきれずに噴き出した。サイアス小隊の面々は
必死に笑いを堪えているようだ。一同を縛る恐怖の縛め
は少し緩んだように感じられた。
「ガッハハハハ! この俺様を単位扱いしおるか!」
すぐに機微を察したオッピドゥスは豪快に身体を揺すり、
大地を揺らすように大笑いした。恐怖など笑い飛ばすに限る。
上官がそうすることで配下もまた、そうすることを許される。
サイアスとオッピドゥスの共有した発想は、蓋しそういうものだった。
もっともこの表現は単純にオッピドゥスのお気にも召したらしく、
「うむ! 城砦の歴史に単位として名を残すのも悪くない。
よし! 兵団長サイアスよ。戻り次第軍議にてその旨上申せい!!」
と上機嫌で命じた。
サイアスはこれを受け、随分と芝居がかった口調で
「流石は閣下。御英断にて。
畏れながらも慎んで拝命いたします。
されば5歩を1オッピとして制定しましょう。
さすれば5000歩は1000オッピとなり、
哨戒部隊や道標を目指す輸送部隊にも身近なものとなりましょう」
と述べ、豪放磊落な大将オッピドゥスへと
大仰に敬礼してみせた。
「1000オッピか。
俺が1000人いるみたいだな」
オッピドゥスは満更でもなく感想を漏らした。
「ヒッ!? そいつはやべぇ!!」
哨戒部隊の兵士らがたまらず声をあげ、
暫し周囲に笑いが満ちた。
さらに数分が経過し、騎兵隊が西へと去って
概ね30分が過ぎようとしていた。
件の異形は奇岩の林をほぼ抜けて地割れだらけの大地へと
その全貌を曝け出した。その異形には足がなかった。
少なくとも目視できる足はなく、円筒の下部はやや拡がった裾を
蠕動させ、モゾモゾと牛車の歩みで
強引に進んでいるようだった。
ルジヌは珍しく長考しており、間を持たせるべく
今度はラーズが口を開いた。
「しかしアンタら5000歩、
いや1000オッピも東に居たってのに
滅法着くのが早かったな。相当無理したんじゃねぇのかい」
これを受けて台車前方に展開していたベテラン兵士、
おそらくは哨戒部隊の指揮官たる兵士長が
「強行軍ってヤツだな。速歩の3倍ですっ飛んできたぜ。
およそ一時間に、そう、4000オッピのペースだ。
もちろん半時ともたない勢いだがね」
と答えてみせた。
そしてそれを引き継いで別の兵士が
「それよりアンタらの伝令、ありゃあ何だい。
物凄い勢いで突っ走ってきて、
『救援要請! 西方5000歩!』
って怒鳴りながらそのまま東へすっ飛んでっちまった。
到底人間の速さじゃねぇぜ……」
と呻くように漏らした。
台車や貨車が待機する本陣から、
第二戦隊の二つ目の哨戒部隊が警邏する領域までは
概ね5000歩即ち1000オッピ程の距離があった。
急報を受け即座に哨戒部隊が行軍を開始したとして、
概ね15分必要となる距離であり、部隊が本陣へと到着したのは
シェドが発っておよそ25分後。逆算してシェドは1000オッピを
9分程で駆け抜けたこととなる。下り坂とはいえ不整地かつ戦地であり、
この数値は実に驚異的といえた。
「ほほぅ、あいつ長距離もいける口か。
まったくもって化け物じみた野郎だな……
まぁまともな人間じゃねぇのは間違い無ぇぜ。
知らんか? ほれ、『フラれ饅頭ガニ』っての」
ラーズはクツクツと苦笑しつつも感心し、
すぐに兵士らと打ち解けて、ざっくばらんに話し掛けた。
「えっ、マジで!?」
「おー、あいつがそうなんか」
「いやぁ、そうか。成程なぁ! はっはっは!」
哨戒部隊の兵士らは顔を見合わせ口々に感嘆し、笑っていた。
その内実はともかくとして、どうやらシェドの風評が
サイアス並みに城砦内で知れ渡っているのは間違いないことのようだった。




