サイアスの千日物語 三十日目 その七
死者3名を出し、騎士ヴァンクインが別行動、新兵1名が脱落して
12名となった第二戦隊所属の偵察小隊は、中央の動けぬ4名を
かばうようにして速歩で西へと向かっていた。
先頭では兵士長ディードが歩みを緩めることなく、淀みなく
左肩の傷を処置していた。ディードはスケイルメイルに板金の追加装甲
といった出で立ちだったが、左肩にあったはずの装甲は吹き飛び、
鎖骨のやや下辺りの位置にはコイン程の大きさの穴が穿たれ、
滲んだ血が鈍色の小札を赤く塗らしていた。
ディードは傷口周辺の小札を切り落とし、下地の布を切り裂いて、
腰のポーチから薬草の煮汁が詰まった小瓶を取り出し、
露になった傷口にその中身を振りかけた。既に痛覚が麻痺しており、
痛々しく目を背ける新兵たちとは対照的に、
顔色一つ変えることはなかった。その後白布でふき取り縛り上げて、
一通りの治療を終えたディードに対し、
「……深いのか?」
と兵士長アッシュが声をかけた。
「親指が入る程度だ。処置は済んだ。問題ない。
だが左腕がうまく動かん」
そう言って、ディードは幾筋かの血の跡が残る、
ぶらりと垂れ下がったままの左腕を見やった。
そして
「まだ右腕がある。盾は任せておけ」
と告げ、背に回していたホプロンを滑らせ、
右腕を裏側のベルトに通し持ち手を掴んだ。
「ディード殿、俺たちだって戦えるっす。
そんな無理しないで欲しいっす」
前曲に付き従う新兵たちは、負傷をものともせず毅然と先導する
ディードに感じ入ったか、恐怖を克服しつつあった。
「お願いしますぜ。怪我した紅一点に庇われるとか、
何度死んでも悔やみきれねぇ」
ディードは小隊唯一の女性だった。盾の扱いと剣術に優れ、
常識の通じないヴァンクインや短気でよく吠えるアッシュとは
対照的に、常に冷静な常識人だった。この期に及んで
新兵たちが持ち直しつつあるのは、ディードの与える影響が大であった。
「新兵風情に労わられては、兵士長として立つ瀬がない。
お前たちは生還することのみ考えていればいい」
ディードは苦笑しつつ言った。声には未だ力があった。
一度は崩れて消え失せそうだった満身創痍の小隊の士気も、
徐々にではあるが回復方向へ向かいつつあった。
だがそうした気概や気高さを嘲笑うかのように、
さらなる惨劇が迫っていた。
小隊は二番目の狼煙を通り過ぎ、いよいよ最後の難所へと差し掛かった。
城砦に最も近い一番目の狼煙のすぐ手前、北往路最後の隘路だ。
黒々と淀む川がすぐ右手に迫り、大湿原の北の突端が押し寄せて、
前方の視界を奪いとっていた。ここをなんとか曲がりぬければ、
あとは南西へと下がっていく湿原に沿い、川から遠ざかって戻ればいい。
冒すべき最後の危険を乗り越えようと、一向は慎重に隘路へと進んだ。
一向は気付くべきだった。気付かねばならなかった。
いくらこの川が平素から暗く淀んでいたとはいえ、
水面が余りにも黒々とし過ぎていたことに。
小隊が湿原の突端で方向を転じ、
西へ、さらに南西へと進路を変えようとしたまさにそのとき、
黒々とした水面は一気に膨れ上がり、巨大な塊となって
小隊に圧し掛かった。
3名の新兵がろくに反応もできないままただの肉塊となり、
かろうじて盾を掲げたディードは砕けた盾ごと吹き飛び、
数度転がって動かなくなった。
巨大な黒々とした塊はさらに1名を巻き込み屍へと変えた。
そして餌食となった新兵4名分の肉片に被さり、
抱きかかえるようにしてブルブルと震え、
ずるりずるりと川へ戻っていった。
それは、馬車数台分はあろうかという巨大なヒルだった。
黒々とした表皮を淀みと陽光でてからせつつ水中へと戻っていき、
ゴボゴボと赤い泡を立てて沈んでいった。
「グッ、走れ! 逃げ延びろ!」
兵士長アッシュは未だ無事な3名に吠えると、隘路の出口へ向き直った。
だがすぐに舌打ちし、
「クソッッ!! ……これまでか!」
と無念そうに叫び俯いた。
隘路前方、生存への一縷の望みの果てに見えたのは、
低く、高く、隙間なく飛び交い隘路を塞ぐ、
20を超える羽牙の群れだった。




