サイアスの千日物語 四十六日目 その十六
薄暗がりの指令室には重苦しい空気が漂い、
そこかしこで呻きとも唸りとも付かぬどよめきが起こっていた。
並みの者より狂気に、人智の外界に慣れている軍師衆ですら
映像に過ぎぬ件の魔の異様な威容に千々に心を乱していた。
間近に接した兵士らの心境は想像を絶するものだったろう。
「……何だアレは」
無数の修羅場を抜けた胆力で恐怖や狂気をねじ伏せた
歴戦の将たる城砦騎士団長チェルニー・フェルモリアは
それでも盛大に顔をしかめて吐き捨てた。
「非常に不快な生き物ですね」
非常識な精神力を誇るサイアスは
取り立てて悪影響を受けてはいなかったが、
単純にあの手の存在が嫌いらしく、冷たい口調でそう言った。
「百頭伯爵だよ。私もアレは生理的にダメだわ……
ともあれ28年振り三度目の顕現だね。
現役で存在を知っているのは剣聖閣下くらいじゃないかな」
セラエノは頭を抱えげんなりとしていた。
両親が城砦騎士である「城砦の子」剣聖ローディスは
丁度28年前にアウクシリウムから中央城砦へと赴任した。
抜群の素質を具え、幼少時から最高の環境で育成される
城砦の子らは成人した時点で訓練課程を終えた兵士の能力を
上回っており、なかでもローディスは齢14にして既に
戦力指数が10を超えていた。そのため入砦と同時に
史上最年少で城砦騎士に叙勲され、第二戦隊の小隊長となった。
そして実戦経験のないローディスのお目付け役となったのが、
当時の若手筆頭騎士であったサイアスの伯父
「閃剣のグラドゥス」その人であった。
「ふむ、なら戦歴はあるのか?」
戦闘が成立する相手ならいかようにも捌ける。
そう考えたチェルニーは僅かに気を持ち直して問い掛けた。
「いえ、特筆すべきものは何も。
百頭伯爵に対しては、過去二度とも籠城で凌いでいます。
火竜の連打で距離を稼ぎ、接近されたら火計で遠ざける。
時間を稼いで最終的には防壁で耐え、夜明け待ちですね」
チェルニーの問いに対し、
セラエノは首を振って気持ちを切り替え、
淡々とそのように説明してみせた。
「何とも厄介な相手だな」
片眉を吊り上げ不満げな表情でチェルニーは言った。
「まったくです。まぁアレについては
夕刻の軍議で詳報を。まずは被害状況を報告しますよ」
「うむ。続けてくれ」
チェルニーは頷き、
手を差し伸べてセラエノの報告を促した。
「では時系列にそって
各所の戦闘での被害状況を報告します。
外郭北東区画でのカペーレ包囲戦においては死傷者無し。
防壁上での飛行戦隊との戦闘において兵士8名死傷。
本城中層南東域での降下部隊との戦闘においては死傷者無し。
本城中層神鏡の在所での羽牙との戦闘においても死傷者無し。
本城上層でのカペーレとの戦闘において軍師1名衰弱。
座標7ー11への偵察で兵士31名死亡。
西側野戦陣での撤退戦において兵士18名死亡。
以上被害総数58名。うち死者52名。
所属別では参謀部1名、第一戦隊兵士41名、
第二戦隊11名、第三戦隊5名となっております」
セラエノは配下の上げる報告を総合しつつ
そのように報告した。
「昨日が100、今日が58か。
常と比べれば随分軽微に抑えられてはいるが、
そうか。百頭伯の顕現のみで50近くやられたのか。
……奸知公がこちらに肩入れする訳だ」
チェルニーは大きく息を吐いた。
「そうですね。入れ知恵が無ければ危険でした。
そこは素直に感謝しておきましょう。
お礼にそのうち仕留めてやるということで」
「えぇ。是非そうしましょう」
セラエノの申し出にサイアスが大きく頷き賛同した。
セラエノは次いで物資の状況についても報告した。
「物資の損耗は昨日より軽微です。
もっとも木材と油は順調に目減りしていますし、
残り二日ではさらに多量に使用することになりましょう。
むしろ全て使い切る勢いで臨まねばなりません」
全ての備蓄を使い切る総力戦の籠城戦をセラエノは提示した。
一見矛盾に満ちたこの物言いに、
「うむ。無用の物惜しみなぞ絶対にするな。
平原にはいくらでも物資があるのだ。
ひっきりなしに運ばせよ」
とチェルニーも賛同してみせた。
「あぁ、それで……」
と、そこでサイアスが小さく何度か頷いた。
「どうした?」
チェルニーに問われ、サイアスは続けた。
「奸知公爵です。
意図が判った気がします。
要はどちらも現有戦力で戦えと、
そういうことではないでしょうか。
此度の宴に際し、
公爵が横取りして丘陵に集めている戦力については
伯爵が顕現に際し荒野の奥地から補充するのを容認する。
ただし過剰に集め余剰で奇襲を仕掛け有利を成すのは
公正ではないのでこちらに報せ、これを阻害せしめる。
一方こちらが宴の最中に
平原から物資や増援を得るのもまた公正ではない。
だから補給路たる北往路の北東隘路を封鎖する。
きっと南往路でも、同様に封鎖していることでしょう。
要は正正堂堂勝負しろと。
これらはあくまで奸知公爵の基準であるため
我々には理不尽にしか見えませんが、
意図としては、そういうことではないでしょうか」
「へぇ…… 成程ね。
そういうものかもしれないね」
サイアスの言にセラエノは納得したようだった。
「成程、ウザい。何様のつもりだ!」
一方チェルニーは納得した上で怒りを露わにした。
セラエノは苦笑して
「そりゃあ魔様で公爵様なんでしょ…… まぁともかく。
こちらは事後処理に入りますので、お二人は戻って休養を。
宴のことは一旦すぱっと忘れ、ぐっすり寝ちゃってくださいな」
と促した。チェルニーは一瞬で切り替え、
「うむ。休養は大事だな。
後は任せる。お前たちもきちんと交代で休むのだぞ!
次は夕刻だな。ではサイアス、俺たちはさっさと引き揚げよう」
と席を立ち、供回りと共に指令室の出口へと向かった。
「了解しました。
参謀長、皆さん、お先に失礼します。
また夕刻より宜しくお願いします」
サイアスもまた立ち上がり、
一礼してチェルニーの後を追った。




