サイアスの千日物語 四十六日目 その十五
塔が崩れ始めていた。
無数の屍を上へ上へと積み上げた塔は
その土台から徐々に崩れ、地中へと沈みゆくように
腐臭と血臭と爛れた肉片とを振り撒きながら潰れていく。
組み上がっていた屍のうち手足な四肢はことごとく液化し、
ぐつぐつと泡立つ膿の海と化していた。
そして何故か、
何故か無数の頭部のみが損壊を免れて原型を留め
腐肉と腐汁の海に浮きぬ沈みぬと満ち溢れた。
大きいものは馬車程もあり、小さいものは人の胴程である
こうした無数の異形の頭部はそれぞれおぞましい表情をして
世界を呪いながら互いに糸を引きべちゃりべちゃりと蠢いていた。
そして塔の全てが崩れ去ったのち、糸を引き粘る腐れた頭部たちは
口々に苦悶と怨嗟の声をあげた。撒きあがる腐臭が色を伴って煙と化し
漆黒の闇を助長し反射板の光を翳らせる中、糸引く無数の頭部の海は
憎悪と破壊と捕食と殺戮に満ち満ちて偵察部隊へと蠢動した。
「うっ、ぐぅう……
何だ、何なのだこれは……」
第一戦隊長セルシウスは顔をしかめ
流れ来る強烈な腐臭と汚臭から
顔をそむけて苦しげに呻いた。
「知るか! 悩むんじゃねぇっ!
全員退け、撤退しろぉおっ!!」
第二戦隊長ファーレンハイトは有らん限りの大音声で
兵士らを怒鳴り付け、正気へ引きずり戻そうとした。
そして脇で呻くセルシウスのガウンを引っ掴み
引き摺る様にして北東へと全力で駆けた。
我を取り戻したセルシウスもまた
「総員撤退せよ! 生きて報告することこそ武勲だ!
無駄死には許さぬぞっ!!」
と配下の小隊を激励した。
しかし両副長の伴った計40弱の兵士たちは
新兵ではないものの比較的実戦経験に乏しく、
まして魔の顕現を目の当りにするなど初めてのことであった。
そして並みの魔より遥かに強大でおぞましく戦慄すべき
この一柱の顕現に正気を失い、或いは嘔吐しあるいはうずくまり、
あるいはケラケラと笑いフラフラと身体を揺すっていた。
結果として撤退に移れたのは40弱の半数程。
残りはろくにその場から動けぬまま
腐臭に糸引く爛れた頭部の群れに呑まれ溶かされ貪られて、
自らもまた爛れた頭部の一つとなった。
無数の糸引く爛れた頭部は数をいや増し
地獄の歌を奏でつつ、撤退する20数名に殺到した。
仲間の末路を目撃した兵士らは発狂し絶叫して常軌を逸し、
その場で不可解な行動を取りつつ相次いで膿の海に呑みこまれていき、
無事に野戦陣までたどりついたのは
両副長を含め僅か7名に過ぎなかった。
座標7ー11の外れから全力疾走を開始した偵察部隊は
ほんの百歩程の道中でその大半を失いつつ、
何とか座標6ー11の野戦陣の外れまで逃げ戻った。
生還した兵士は目を血走らせ動悸が酷く
今にも壊れそうな風情であった。その様に舌打ちしつつ、
ファーレンハイトは待機する150名程に大声で吠えた。
「総員退けッ! 魔が顕現した!
ただちに城内へ引き返せ!!」
そしてファーレンハイトと供回り、さらに
野戦陣で待機していた配下である第二戦隊総勢50余名は
城門へは向かわず、城砦の西側を防壁に沿って北上した。
城門に200を超える数が一斉に殺到しても
目詰まりを起こして圧死を招くだけであり、また
撤退方向を分散することで囮となって魔を惹きつけ、
多数の撤退のための時間を稼ぐ意図である。
ひとえに底抜けの胆力と鋭利な判断力の成せる一手であった。
北へと猛進し始めた第二戦隊のすぐ南西には
うぞうぞと蠢く無数の爛れた頭部が迫っており、
状況を見守る野戦陣の第一戦隊兵士らの何割かは
狂気に苛まれ呻き叫び嘔吐していた。
「クッ…… 我らは東進するぞ!
東防壁に沿って北上し北門から入城だ。
撤退する味方の邪魔をするな!」
野戦陣全体を巡察していたため本隊からやや東に離れていた
ガーウェイン率いる一戦隊と二戦隊の混成部隊50弱は
この判断に従いファーレンハイト隊と同様
遠回りして北門へと撤退した。
「シュタイナー、兵を先導せよ!
私はここで殿となる」
野戦陣に残る100名程を率いる
第一戦隊副長セルシウスは厳粛な声でそう命じた。
「御意! 副長、ご武運を」
セルシウス大隊の副官であるシュタイナーは
敬礼し拘泥せず即座に自身の役目を果たすことにした。
「うむ! さぁお前たちも早くいけ!」
槍を捨て代わりに松明を手にしたセルシウスは
自身の供回りにも撤退を促した。
膿の海と糸引く無数の爛れた頭部の群れは
野戦陣の防柵間近にまで迫り、腐臭を撒き散らし
腐汁を飛び散らせてネバネバと波打ちながら
防柵を一呑みにしようと大きく持ち上がった。
「お断りいたします! 我らも殿に」
供回りは命令を固辞しセルシウスの両脇を固め、
手に手に松明を持って周囲に火をかけ始めた。
元々野戦陣内には昨夜同様、随所に火計用の油が撒かれていた。
そのためすぐに火の手が上がり、防柵を乗り越えようとする
魔の進路で大きく燃え盛った。その勢いを前にして
本能的に光を嫌うこの大いなるこの不浄の魔は
しばし躊躇しその動きを止めた。
「……良かろう。
だが死ぬために残るのではいぞ。
はき違えるなよ!」
「ハッ」
セルシウスと供回りは兵たちが撤退を完了する時間を稼ぐため、
次々と野戦陣に火を放ち徐々に城門へと引き揚げ始めた。
こうした別働隊や殿の活躍もあって
混沌の窮みと化した戦場に徐々に秩序が形成され、
城門へと先行して撤退した80程の兵は
陣を崩しつつも最小限の混雑で無事に城内へと逃げおおせた。
ただしやはり狂気に呑まれた者が20名程出て、あろうことか
自分から魔へと殺到し、野戦陣に攻め入ろうとする
無数の糸引く頭部を持つ膿の海へと飛びこんでいった。
名状しがたく耐えがたき悪意に満ちた腐れたこの魔は
最多数の兵を追い、野戦陣を抜け城門を目指し始めていた。
一時は炎で怯ませ得たとはいえ、粘性の高い液体のような
この魔の侵攻を恒久的に押しとどめる術は、野戦陣にはなかった。
腐汁と粘液と爛れた頭部で出来たこのおぞましき魔は
野戦陣の防柵にぶち当たるとネバリと糸を引きつつこれに乗り上げ
あるいは西方の間隙を塗ってヌラヌラと内部へ侵入しようとした。
燃え盛る炎は最早この魔に対し、
些かの効能をも発揮することはなかった。
魔の粘液と質量によって押し潰されてかき消され、
より一層の腐臭をばらまく一助となっていた。
不浄の魔は野戦陣の一画をほぼ占拠してネバネバと糸を引き
無数の頭部で怨嗟を謳いつつ次々に発狂した者を取り込み喰らい
新たな頭部と成して城門へと向うべく侵攻を開始した、まさにその時。
カッと音を立て、野戦陣の上空に白昼の輝きが生じた。
本城中層上部から放たれた精神の矢が
自重落下するかのように落とされた巨大な照明弾
「天雷」を射抜き、莫大な輝度を持つ光の傘をもたらしたのだ。
さらに防壁上に設置された反射板が照準を合わせ、光の槍と化して
糸引く頭部を持つ膿の海たるこの魔をジリジリと焼いた。
手足が千切れその場に胴から沈みそうな、
強烈にしておぞましい叫び声が響き渡った。
それは無数の頭部から一斉に放たれる、魔の悲鳴であった。
膿の海は絶叫しながら恐ろしい速さで引き潮のごとく退いていき、
数百歩分の距離を逃げて荒野の無窮の闇中へと消えていった。
天雷の輝きは数拍の間続き、そして霧消した。
荒野には再び漆黒の月光が舞い戻り、篝火と反射板に切り取られ
照らされるだけの圧倒的な暗がりが訪れたが、
件の魔はもうどこにもいなかった。
そうして程なく東の空が白み出し、
荒野に夜明けが、暫しの休戦が訪れた。




