サイアスの千日物語 四十五日目 その三十六
サイアスが眠りから覚めたのは、午後2時をまわった頃だった。
疲れているだろうからと、夕方まで起こさず放っておかれるかも
知れないと考えていたサイアスは、無事に昼のうちに目覚められた
ことに一先ずほっとしていた。
サイアスが幽霊の如くゆらゆらと
書斎兼寝室から出ると、すぐに食事の支度が始められた。
サイアスの歩みに合わせて椅子が引かれ、座ると同時に
濡れた手ぬぐいが差し出される。手や顔を拭いてぼーっと
しているだけで、着々と食事の準備は進んでいった。
「これでも実家に居た頃は
それなりに周りに合わせて暮らしていたけれど」
サイアスの呟きを気に留めるでもなく、
デネブやディードはてきぱきと支度を進めていく。
「こうまでこちらに合わせて貰えると
こっちが実家でいいや、となってしまうね」
甲冑メイドと女執事に完全に飼いならされ、
サイアスはまるで他人事のような感想を漏らした。
「まぁ、それだけの仕事はしてるでしょ。
あっちに戻ったらむしろ王侯貴族の暮らしかもよ?」
書類を処理しつつロイエが応じた。
「それは勘弁だな。四六時中全く知らない人と
明るく笑顔で接していないといけないから」
元々人見知りの激しかったサイアスは苦笑した。
そんなサイアスにロイエは呆れた様子で
「何甘ったれたこと言ってんの。
そんなのは女子の基本技能よ?」
と語った。
「そうなのか……」
と深刻な表情をするサイアスに
「私はしないけどね!」
とロイエは胸を張りドヤ顔で宣言した。
「基本がなってないな……」
「ほほぅ、いい度胸してるわね……」
ロイエにニタリと目を付けられたサイアスは
「ほらほら、娘の前で喧嘩はよくない」
とベリルを引き寄せ盾とした。
ベリルは呆気に取られつつ上目使いでロイエを見つめた。
「ッ!! そうきたか……」
舌打ちして悔しがるロイエに涼しい顔を向けつつ
「ベリル、ロイエが襲ってきたら助けてね」
とサイアスはベリルに頼みこんだ。
「いいわ、覚えてなさい。私は執念深いわよ……」
ロイエは飢えた狼の眼差しで宣告した。
「美味しいもの食べて綺麗さっぱり忘れてくれ」
ちょうど食事の支度が完了し、
デネブとディードを労って
皆でありがたくいただくことにした。
「さて、たまには話でもしようか」
食事の後茶を楽しんでまったりとした空気の中で
サイアスはベリルに語りかけた。
「何の話をする?」
「えっと……」
ベリルは困惑していた。
ベリルには人に話すような思い出がないからだ。
「じゃあラインドルフの話でもしようか?
もう皆の実家だしね」
最初からそのつもりだったものか、
サイアスは自身の実家であり今は一家皆の故郷となった
城砦領ラインドルフについて話を始めた。
「ラインドルフは平原西方、アウクシリウムから南東に
半日程歩いた位置にある、ライン川沿いの小さな村だよ。
8年程前に父が騎士団から恩賞で貰った土地を
親類縁者で開拓して作ったんだ。
父は城砦に来る前はトリクティア10州…… 今は11州か。
まぁその州都の一つであるイニティウムで千人隊長をしていた。
母はイニティウムの貴族の娘。確か新領には100人程が
付いてきたんだったかな…… 今の人口は400前後か」
「100人で一から村を作り上げたのですか?」
ディードが興味深げにそう問うた。
「あの辺りは水の文明圏の廃墟や遺跡が多くてね。
用水関係の設備が完全な状態で残っているという理由で
場所を選んだのだそうだよ。だから生活圏としての土台は
既にあったということだね。
村から少し離れると、
今でも結構な数の廃墟や遺跡が残っている。
たまに山賊の類が住み着くのだけれど、
そしたら伯父さん達が嬉々として討伐に行くんだよね。
それで物資や金品を頂いてくるんだ。それらは手続き上
一旦騎士団預かりになった上で、山賊退治の報酬として村のものになる。
麦や葡萄の生産が軌道に乗るまでは随分それで稼いだそうだよ。
最近だとアルミナが一仕事して恩賞で加増を受けたということだね」
「なんだか楽しそうなとこね。退屈しなさそう」
ロイエが目を輝かせてそう言った。
山賊の上前をはねるのは確かに楽しいだろう、と
兵士となった今はサイアスも同様に感じていた。
「ライナス閣下への所領下賜は、単なる恩賞というよりも
近隣への統治任務の様なものだったのかも知れませんね」
ディードがその様に感想を漏らした。
「そうかも知れないね。未だ周囲に別の開拓村が
出来ていないから、切り取り次第な側面はあるのかも。
今回の所領加増もそんな気がする」
サイアスは納得して頷いていた。
「ライン川がとても綺麗で大きな川でね。畔にある村には
いつも川風が吹いていて、夏でもそこまで暑くはなかったな。
麦と葡萄の畑があって、特に葡萄酒が名産になっている。
『ラインの黄金』は知る人ぞ知る名酒として高値で取引されているよ。
手紙によれば、今はロイエの仲間が持ってきた豆と蕎麦って
いうのも栽培してるんだってさ」
「打ち立てのお蕎麦は美味しいわよ!
でもそれだと山葵も欲しいところね……」
「ワサビ……?」
ロイエの言うワサビなるものを、サイアスは知らなかった。
「ふっふっふ、そのうちたっぷり味あわせてあげるわ!」
「……危険なものなんだろうか」
ロイエの笑みに邪悪さを感じて
サイアスはそのように呟いた。
「フフフ、身体に悪いものではないわ」
ニティヤもまた、悪戯っぽい笑みを浮かべていた。




