サイアスの千日物語 三十日目 その三
城砦騎士ヴァンクイン率いる第二戦隊所属の偵察小隊が城砦を発して、
およそ一刻半が経とうとしていた。左手を流れる川は深々と
湛えた水を淀ませながら西へと流れ、右手に迫る巨大な湿原は
目にも痛々しい毒色の潅木や朽ちて腐れた倒木を張り出していた。
「ヴァンクイン様、前方に一つ目の狼煙です」
騎馬の脇を固める重歩兵はそう言った。彼らは兵士長の階級にあった。
「周囲に敵影はないな。奥は湿原のせり出しのせいで見えんか……」
一つ目の狼煙は北往路における西の外れ、丁度隘路の出口外側にあった。
小隊は河川からの奇襲を警戒して距離を取り、やや南方から北東へ向けて、
湿原のせり出しに沿う形で斜めに進んでおり、隘路の内側にあたる部分を
十分に視認することはできなかった。
「陣を布く。アッシュ兵士長を中央、その左右後方に四名ずつ。
これを前曲とする。次の中央は俺だ。その左右後方に三名ずつ
付けて後曲とする。最後方にはディード兵士長だ。背後を警戒しろ」
「ハッ」
兵士長二名は速やかに移動し盾を構え、新兵たちは
もたつきながらも陣を整えた。中央に位置する重歩兵の兵士長が
陣中央で敵の攻撃を凌ぎ、やや後方両翼の新兵が機を見てせり上がり
あるいは引き下がり、間隙を縫って攻撃をする。両翼の新兵は
戦況に応じて位置を換え、防御主体の方円の陣に切り替えることもできた。
城砦ではこれを「波頭の陣」と呼んでいた。
「川には極力近づくな。何がいるか判らんぞ。
湿原もそうだが歩けるだけまだマシだ。
陣形を維持したままゆっくり進め。私語は禁じる」
散々駄弁っていた新兵たちも、さすがに無言で従った。
川は城砦のある西側が下流であり、隘路付近ではやや南東へと傾いて、
逆に北東へとせり出す湿原と丁度上下の顎をかみ合わせるような格好で
隘路を形成していた。小隊は左手に湿原を、前方に一つ目の狼煙を望み
ながら、湿原のせり出し突端で東へと方向転換し、隘路の奥へと東進した。
「居ないな…… 二つ目の狼煙も見えているが……」
騎士ヴァンクインは呟いた。既に夜は明け、
馬上でわずかに首を上げた位置で太陽は自らの旅路を歩んでいた。
陣形を維持しても未だ左右に余裕はあったが、隘路はそれなりに
狭いものとなっていた。川は南東へ折れ、湿原も小隊が
方向転換した位置を頂点として、やはり南東へと拡がっていた。
そのため三つ目の狼煙近辺はやや見えにくいものとなっていた。
小隊は陣を維持したまま、警戒しつつ三つ目の狼煙を目指して
東へと進んだ。どうやら上がっている狼煙は連続して仕掛けられた
三本ではなく、不発のものも合間に数本挟んでいた。
特に三本目の狼煙は先に確認した二つより遠く、三つ目の狼煙がようやく
その出所を露にしだした頃、前方の往路中央に、やけに大きな倒木が
横たわっているのが見えてきた。
「ふむ、一本だけか。狼煙に気づいて放棄したのか?」
川を越えてやってきた魔が狼煙に気づき、城砦からの部隊に
強襲されるのを嫌い、進路妨害を諦めて引き上げたのではないか、
そうヴァンクインは推測した。狼煙自体を消さずに去ったのが
その証左ではないか、そう思い至ったのだ。
陽は柔らかに陽射しを投げ、狼煙は緩やかに燻り、
空は朗らかに晴れていた。昨夜出た羽牙どもも見当たらず、
あるのは倒木一本ばかり。
「多少でかいが転がせばいいだろう。前曲八名、倒木を湿原へ退けろ」
夜通し駆け回り、極度の緊張を経た新兵たちは、敵が居ないと判って
一気に緊張の糸が切れたのか、伸びをし笑顔まで浮かべながら、
倒木へ近づき、手をかけた。そして笑顔で互いを見やりながら、
「せーのっ」
と声を揃えて倒木を転がした。
ぞぶり。
「ぎゃっ」
「ぐわっ」
「ぐぁあああぁあっ」
三名の新兵が悲鳴をあげて倒れた。
いずれも出血が酷く、手や足が千切れてなくなっていた。
突然の出来事に目を見開く一行の前方には、
先程まで新兵の一部だった肉片をほおばりつつ、バサバサと羽ばたく
五体の奇怪な生き物、眷属「羽牙」が映っていた。
人の胴ほどもある巨大な獣頭の左右にコウモリの翼を生やし、
胴や足など無くただそれだけで飛び交う。俊敏な動きと巧みな連携で
死角を取り、その鋭利な牙と強靭な顎で四肢や頭を食い千切る。
常に三体一組で行動し、一体やられると即座に上空へと逃げ去る
性質の悪い存在。それが羽牙だった。
「クソッ。 倒木の下にいやがった!」
兵士長アッシュが忌々しげに吠えた。
動かした倒木のあった場所には、抉り取った様な窪みがあった。
窪みに羽牙を詰め込んだ後に倒木で蓋をした、という表現が
最も的確といえた。無論手足のない羽牙が単独で成し得ることではない。
小隊の面々は深夜に空から頭上を攻め来る羽牙と戦い、
その後空に立ち上る狼煙を追い、魔が姿を消す朝を意識して
空に太陽を見上げつつ進んできた。
つまり意識も無意識も、常に上を向いていたのだ。
羽牙の奇襲は、その虚を見事に突いたものだった。