サイアスの千日物語 四十五日目 その二十三
座標6ー13の南西付近における
魔獣貪隴男爵と騎士隊との戦闘が膠着状態に入って
既に四半刻が過ぎていた。貪隴男爵は距離を保って威圧を続け、
騎士団は緊張状態を保って迎撃態勢を取っていた。
周囲に他者の姿はなく、魔軍の残存戦力が押し寄せることもなかった。
剣聖とその弟子たる抜刀隊の襲撃を受けて、増援どころではないのだろう。
「おぃ殿下……
どうも奴さん、鼻で嗤ってるようだぜ」
丁度龍爪陣の交点に立つ第二戦隊副長ファーレンハイトが
後方のチェルニーにそのように声を掛けた。
「あぁ、ありゃ嗤ってるな。
さらに楽しんでますってツラだ」
ファーレンハイトの左前方に立つ
二戦隊の騎士が賛意を示し、さらに私見を追加した。
「ほぅ、魔の心情が判るかね」
右翼半ばの一戦隊の騎士がそのように問い、
「まぁ推測だな。女心ってのよりゃ判りやすい」
と返したところ、
「ふん。『ぶさめん』らしい見解じゃな」
とウラニアにバッサリ両断された。
「何てこった。
こっちの魔にも鼻で嗤われたぜ」
一瞬の油断で壊滅を招くギリギリの状況下にあってなお、
騎士たちは軽口を叩いていた。もっともその挙措には
微塵も油断はなかった。
騎士らの推察通り、確かに貪隴男爵は嘲弄している風情だった。
南下を開始した貪隴男爵に迅速に詰め寄り対峙した騎士隊の布陣を
即座に反撃狙いの遅攻陣形であると看破した貪隴男爵は、
威圧し攻め込む構えを取りつつも布陣を崩す手立てを模索していた。
そして何より健気にもこうして立ち向かってくる人の群れとの
対局を楽しんでいた。丁度活きの良い虫を捕えた猫が
それを小突いて遊ぶように、即座に殺すのを惜しんで
興味の向くまま構っている、そういった風情を示していた。
「フン…… 好きにさせておけ」
最後方で布陣を統率するチェルニーは
特段の感慨なくそう言った。騎士団側としては
何事もなく追い返せれば、それは勝ちの部類に入るからだ。
もっともまったくの無事で返したならば、
翌日再び大軍を率いて攻めてくる。
貪隴男爵が再び概念へと戻るまでに繰り返される大戦と
まだ一柱残る姿を見せぬ魔のことを思えば、
そうした選択肢は何度も取れるものでもなかった。
「まあ好きにさせた結果、
こうして30分近く睨めっこしてるわけだ」
「こちらの意図はお見通しのようじゃな……」
二戦隊の騎士とウラニアがその様に述べた。
防衛専門の一戦隊の騎士らと比して、
強襲専門の二戦隊の騎士衆はやや焦れている感があった。
「ウチの閣下が裏を取るまで粘るのもいいし、
いっそ夜明けまで引っ張るのも悪かない。
だが無傷で返すのは美味くねぇな……」
ファーレンハイトの一言は
この場の騎士全員の見解を代弁するものだった。
チェルニーもまた全くの同意見であったが、
一方で別の見解も持っていた。
様子見や嘲弄は無論あるだろう。
玩具を弄るという意図もまた有って然るべきだろう。
ただしもっと重要な、本質的要素を忘れてはならない。
魔が何故顕現したか。そして何故人と戦うのか。
魔は宴を、この戦況と戦闘を楽しんでいるのだ。
魔にとり宴とは、無限に続く生の最中に得た
夢幻の如き祭りの灯りなのだ。
せっかくの得難いこの機会を
何事も成さず手放すなどということは絶対に在り得ない。
それが魔と人の紡ぐこの戦の主、チェルニーの分析だった。
突如激震が周囲を襲い、暴風が西から東を薙いだ。
一切の予備動作を見せずして貪隴男爵が突撃してきたのだ。
踏み込む大地に亀裂を走らせ、前へと伸びた両の角をびたりと
敵陣に突き付けて、身を低くして轟然と、貪隴男爵は殺到した。
龍爪陣にて迎え撃つ騎士は鋭気を漲らせ
来るべく一瞬に備えたが、
貪隴男爵の突撃は龍爪陣の目と鼻の先で急停止し
代わりにその状態がずわりと膨れ上がった。
上体を起こし暴威の塊であるその前足で布陣前列を
圧潰せしめんと、踏みつけの構えを見せたのだ。
突撃は欺瞞であり踏みつけこそが本命であったものか、
膂力70を誇るその乱神たる怪力を余すところなく活かして
地割れすら起こす踏みつけで狙うのは布陣左翼最前列。
第一戦隊精兵隊長にして鉄人シブことシベリウスであった。
虚動に惑わされつつも十分に姿勢を保ち、シベリウスと
背後に詰める騎士はこれを回避すべく旋回運動に入り、
周囲の騎士は硬直を狙って足を刈るべく一瞬の機会に備えたが、
果たしてこの踏みつけの構えさえもが欺瞞であった。
両の前足はシブを襲うことなくそのまま布陣手前の大地を踏み付け、
低く沈んだ身体の撓みを予備動作として、貪隴男爵は
神速の体当たりを仕掛けてきた。狙いは右翼最前列。
第一戦隊長にして騎士長たるオッピドゥスその人だった。
貪隴男爵は既に敵の布陣に対する分析を済ませており、
陣形が機能するのはひとえにこの巨漢ゆえであると看破していた。
全ての挙措は徹頭徹尾、この体当たりへの権謀術数であったのだ。
格上を相手として迎撃する場合、最終的な勝敗はともかくとして
守備側には甚大な疲労と損耗が発生する。なぜなら格上の攻撃は
たとえ小規模なものであっても格下には深刻な打撃となるため、
敵のあらゆる挙措に対し取捨選択して無視することができないからだ。
かすり傷でも致命傷になるため、たとえ欺瞞であってもいちいち
全力で対応せねばならない。結果同格以下での無視して本命を取る、
いわゆる「肉を斬らせて骨を断つ」が成立しないのだ。
肉を斬られた時点で骨まで達してしまう。それが人と魔との格差であった。
刹那の後、龍爪陣を敷く騎士たちと
遥か後方の指令室で固唾を飲んで見守る参謀部の軍師衆が目にしたもの。
それは、飛散する金属片、ひしゃげた装甲版、それらを撒き散らしながら
盛大に宙を吹き飛んでいく騎士長オッピドゥスの姿であった。




