サイアスの千日物語 四十五日目 その二十
既に無数の死に包まれ、終焉の黒に塗り込められて
拡がる果てない闇の只中に、その繭はあった。
視界を奪う無辺の闇中であるにも関わらず、その繭は
誰もの目にはっきりと、拒むことを許さずその姿を焼き付けた。
もしもこの状況で心を凍らせ冷徹に全てを見通すことの
できる者がいたならば、実際繭の周辺では
闇が薄らいでいるのだと気付いたかもしれない。
圧倒的な闇の凝固たる繭は黒の月がもたらす闇の光を
一身に取り込み、そのため周囲の闇夜自体を薄めていた。
そして異形から放たれる闇色の光輝は徐々に多様な色彩を帯び、
眩い光が亀裂となって迸った。そうして全ての生者の前に
死肉を憑代とした輝く異形が姿を現した。異形は二つ。
巨獣と巨人の姿をしていた。
その巨獣は極限まで発達した、見ているだけで圧潰させられそうな、
肢と呼ぶには余りに豪壮な四本の脚を持ち、肉食獣の頭部はどこか
人に似てこめかみからは牛に似た長い角が湾曲しつつ前方へ伸び、
額の上からは雄山羊に似たごつごつとした角が後方へと反って伸びていた。
体毛はほとんどなく灰と橙を合わせたような色合いの皮膚の至る所に
紋様に似た曲線的な模様が明滅しており、頭頂部から尾に至る直線上には
深い海の色をした鬣が聳え、尾の先端は燐光を放っていた。
巨獣はオッピドゥスに数倍するその巨躯をぐぐっとかがめ、
やがて伸び上がるように咆哮し、先刻繭が見せたような同心円状の
衝撃波を発生させて甲高い金属音と地鳴りのような重低音で
遍く大地を揺るがした。
一方の巨人は闇がそのまま凝縮して人の形を取ったような、
実体感の希薄な雲に似た朧なる姿であった。事実死肉で出来た筈の
全身のあちこちは陽炎の様に揺らめき、どこか別の世界の風景を
その虚ろな表面に垣間見せているようであり、見る者の正気と精気を
根こそぎ奪い取っていくかに感じられた。巨人は僅かに右手を掲げた。
すると手の周囲に蒼炎が生まれ出て、瞬く間に中空を焦がして伸展し、
振り下ろされた手の後を追って蛇の舌の如くひゅるりと舞い、
青白い燐光をまき散らして地を叩き、大気を斬り裂いた。
「魔の顕現を確認! 数2! あれは……
魔獣『貪隴男爵』と魔人『闇の御手』です!!」
荒野の闇を映して暗い色に輝く指令室で、
食い入るように映像を眺めていた軍師の一人がそう叫んだ。
「どちらも予測の範囲内だ。2体なのもね」
セラエノは顕現した二柱を眺めつつ、無表情にそう言った。
「推定戦力指数は……
貪隴男爵が115、闇の御手は101といったところか」
参謀長セラエノの報告に、サイアスは眩暈がした。
限界まで鍛え上げた人の辿り着ける領域が精々10から20。
巨人族の末裔とされるオッピドゥスですら30であるのに比して、
その数値は圧倒的に過ぎた。まるで見渡す限りを覆い尽くす
海嘯がただ一身に迫り落ちてくるかの様な感覚を受け、
サイアスは思わず呻いた。だが、その呻きは
すぐに別の呻きへと変わった。
「闇の御手、倒壊!
左半身消滅、修復せず!」
サイアスはポカンと口を開けて映像を見つめていた。
巨人の背後から夕刻の紅に似た真紅の閃光が鋭く走り、
深い色に輝く巨人の左の膝を断ち切って燃え上がらせ、
さらに左の脇から首までを逆袈裟に斬り上げて煌めき、
夕陽色のままに燃え盛るのを見た。
そして左足と左腕を失い、地に崩れ落ちるや否や跳躍して
彼方の闇へと消えていく大いなる魔の巨人、闇の御手を見送った。
あの真紅の閃光、確かにどこかで見たことがある。
サイアスのその問いはすぐに軍師の報告が解き明かした。
「剣聖閣下の奇襲成功!
闇の御手、戦域を離脱、撤退しました!!」
歓声とも溜息とも付かぬ声が指令室に満ち、
ちらりと映った剣聖の姿は真紅の閃光と共にすぐに
闇の中へと消えていった。サイアスはポカンと口を開けたまま、
救いを求めるようにセラエノを見た。
「人型は襲い易いんだってさ。
この一撃を決めるために、
閣下はずっと、荒野の闇に潜んでいたのさ。
今頃はお弟子さんと敵本陣の残存戦力を始末しに向かってる」
セラエノはクスクスと笑い、頷いた。
「……強さの規模が、違い過ぎる。
閣下は本当に人ですか」
サイアスは率直に過ぎる感想を述べた。
第一戦隊が身体を張って敵を食い止め、
第二戦隊が一瞬の隙を突いて強襲し、仕留める。
剣聖ローディスの一撃はそれを戦術規模で実現した
ものであり、第二戦隊の真骨頂を地でいくものだった。
「君と同様、確かに人だよ。測定不能の剣術技能持ちだけれど。
闇の御手は特に閣下のお得意様なんだよ。
元は貪隴男爵より強い子爵級だったんだけれど、
斬る度に少しずつ戦力指数が下がってるなぁ。流石は魔剣。
42のはたこを一刀両断にしてるし、そのうち『必殺』しそうだね」
セラエノは楽しげにそう言い、
「ほらサイアス、いつまでもそんな顔してないで。
もう一柱残ってる。もう奇襲は効かないよ」
セラエノに促され、サイアスはハッとして表情を引き締めた。
斜面の天井の映像では、猛り狂った輝く魔の巨獣「貪隴男爵」が
唸りを上げて騎士隊と対峙していた。




