サイアスの千日物語 四十五日目 その十六
闇色の調べに祝福され、漆黒の荒野に顕れ出でた異形。
周囲からの説明を待つまでもなく
サイアスはこれが荒野の、いや世界とでも言うべき
もっと大きな枠組みの支配者たる存在、
すなわち「魔」であると直感した。
驚く程、自身の正気を疑う程冷静にそれを受け止め得たのは
多くの異形の眷属と対峙し戦闘を重ねてきた成果であり
また常識に囚われぬ思考の柔軟さの証左でもあった。
また指令室という戦場からやや離れた位置で観る
映像に過ぎなかったというのも大きいだろう。
もしも平原で、あるいは荒野での初陣でこれに遭遇していたら。
そう考えると、眷属との戦闘経験を経て初めて城砦兵士と見做し、
宴へと参戦させる城砦側の方針がまったくもって正当な対応
であると頷けたし、平原にいる百万を超す兵士の群れが
荒野ではまるで役に立たないというのにも納得できた。
むしろ正気を失い狂気に堕ちた百万の兵など、
役立たずを通り越し凶器以外の何者でもなくなってしまうだろう。
ともあれ持前の非凡な精神力と幾重もの緩衝材となる経験や事物が
サイアスの精神を魔との遭遇による狂気の発露から遠ざけていた。
そうしてサイアスの口から飛び出したのは、
「何故奇襲しないのですか?
見たところまだ満足に動けぬようですが……」
という、まさに神魔をも畏れぬ一言であった。
悪夢の如き夢幻の光景に魂ごと囚われ、呆けたように映像から
目を離せないでいた軍師衆や数名の兵らは、その一言に
思わずハッとしてサイアスを食い入るように見つめた。
「いやいや、流石だね……
アレ怖くないの? 私は君が怖くなってきたよ」
荒野で100年の戦歴を持つセラエノが
言動とは裏腹に欠片も怖がる素振りを見せず、
瞳に妖しい光を宿して実に楽しげにそう言った。
「アレは繭の様なものだ」
司令席から立ち上がった騎士団長チェルニーは
サイアスの肩にポンと手を置き満足げな笑みを浮かべてそう語った。
「今壊せるのは屍で出来た『ガワ』だけだ。
中身は無傷で霧散して、次の夜にまた大勢率いてやってくる。
眷属の大軍との戦闘とそれに続く繭の撃破を
黒の月が終わるまでひたすら繰り返すのも手ではある。
実際昔はそうやって対処していたそうだが、
それではこちらの損失が甚大に過ぎるのだ。
かつて帝国であったトリクティアが
物資並びに兵士提供義務を拒否するまでに追い込まれた程にな……」
以前中央塔下層で軍師ルジヌに聞かされた城砦陥落の惨事と
その切っ掛けとなったトリクティアの提供義務拒否には、
是非はともかく相応の背景事情があったようだとサイアスは理解した。
「まぁアレに関して判っていることは
実際大して無いのだがな。一応軍師どもに聞いておくといい」
チェルニーはそう言った後表情を引き締め、
「作戦展開中の全部隊に伝達。対魔戦闘用意!
各隊の指揮は下士官に委ね、戦地の城砦騎士は
座標6-15に集結し騎士隊を編成せよ。
隊の指揮は俺が執る」
と号令を発し、指令室の出口へと向かった。
「了解しました。
以降の各隊への指示はどうされますか?」
参謀長セラエノは騎士団長チェルニーが前線に立つのを
止める素振りを見せなかった。
魔と対峙できるのは騎士のみであり、
騎士を率いることができるのも、やはり騎士のみであるからだ。
「良い機会だ、『兵団長』に任せよう。
お前たちも支え甲斐があるだろう?」
チェルニーは目のみで微笑しそう言った。
「成程…… 良いですね。
是非ともそうしましょう」
セラエノもまたクスリと笑って頷いた。
「というわけだ。後は頼むぞサイアス」
「……はい?」
サイアスは胡乱な表情でチェルニーを見た。
「お前が兵団長だ。うまくやれ!」
騎士団長を頂点とする城砦騎士団の組織構造において
城砦騎士や騎士長は独自の内部組織たる「騎士会」に所属し、
城砦兵士のみで構成された通称「兵団」の各戦隊に派遣されて
指揮官となり、これを率いる。
また第四戦隊は統率上各戦隊の上位に位置し
第四戦隊の兵士長は他戦隊の兵士長に優越して
騎士を除く全城砦兵士に対する指揮権を有する。
よって第四戦隊兵士長は騎士団長及び騎士が不在の場合
全城砦兵士の長としてその統率を担うことになる。すなわち。
第四戦隊兵士長であるサイアスこそが「兵団長」であった。
サイアスは暫し呆気に取られて硬直していたが、
数拍の後に全てを理解し、何か巨大な重しがズン、と
身の内に沈み込んだような錯覚を覚えた。
そして表情を引き締め、席を立って騎士団長チェルニーに向き直り
「御意。一時兵権をお預かりいたします。
閣下。御武運を」
と威儀を正して敬礼した。
「うむ、それでいい。
では行ってくる。また後でな」
チェルニーは甲冑を鳴らして軽く笑い、
振り返ることなく戦場へと向かった。




