サイアスの千日物語 四十五日目 その十五
魔軍主力混成部隊との激戦を制し
敵戦力の大半を駆逐した城砦騎士団であったが、
緒戦で見られたような勝鬨や歓声を上げる者はなく、
皆粛々と移動に専念している様子だった。
騎士も兵も皆一様に、その表情に緊張を漂わせていた。
座標7-12で縦長や死神虫を殲滅した
第二戦隊の各小隊は、生存者の確認もそこそこに
再び散開して迅速に闇へと消えてゆき、
西側野戦陣で戦闘を終えた第一戦隊は
西側の守備隊を本城へと下げ、手つかずの東側野戦陣と
城門正面の座標6-15のみを徹底防備した。
指令室の斜面となった天井に映し出される
こうした各隊の動きを眺めていたサイアスは、
その動きに疑問を感じて騎士団長チェルニーに
問いを発しようとしていた。その時
ドクン。
荒野そのものが鳴動し
あらゆるものの耳に未知なる何者かの胎動を予感させた。
兵士長らは声を荒げて部下を急かし、部隊の移動にやっきとなった。
ドクン。
空と大地の境目すら判らぬ深いの闇の中、
それでも色濃く降り注いでみえる黒の月光が中空に収斂し始め、
顔をあげたさらに上の高さに無窮の闇の塊が生じはじめた。
城砦騎士たちはあるいは瞑目しあるいは鋭くその塊を睨み、
来るべきその時に備えていた。
ドクン。
方々で起こった闇の収斂と収束は座標7-12で顕著となり、
方々の闇からより濃い部分が霧かもやのように流れ来て
暗黒色の巨大な球体を形成し始めた。
暗黒色の球体は確かに荒野に存在していながら、
その内部はまるで別の世界に通じているかのごとく
ただひたすらに奈落色をして暗く深かった。
指令室のあらゆる者から表情が消え、
映し出された規模も距離感も定かではない
闇の凝縮から目を逸らせないでいた。
ドクン。
座標7-12に散乱する
無数の兵士と眷属の屍が俄かに小刻みに震え出し、
やがてどろりとした粘性のある液体が地に滴を垂らすような恰好で
上空の無窮の闇珠へと少しずつ堕ちてゆき、
屍はひしゃげくずれ変形しながらやがて大きな一つの肉となり始めた。
それは闇そのものの受肉であり、次々と堕ちてゆく屍が
続きを促すかのように組みあがり、溶け合って膨れ千切れては繋がり、
荒野の鳴動に赤子の鳴き声の様な甲高い音が加わり出した。
闇そのものが歌っていた。
旋律も歌詞も抑揚も人の理解を超えた
大いなる調べが闇色の球体から生じる異邦の風に乗り
漆黒の荒野に吹き荒れて、抗えぬ威厳と逃れ得ぬ畏怖を撒き散らしていた。
赤子の声には無数の悲鳴や絶叫が加わって、
深淵から現れる何かを黒く祝福していた。
そして。
闇そのものである球体は徐々に薄れ、
屍の塊はもはや屍ではなくなり、ただし表面に屍の姿を残したまま
脈打ち揺れ動き生命活動を開始して大きな一つの異形の生き物へと変じ、
未だ固まり切らぬ身体を潰し直しを繰り返しながら地に立った。
見てはならない。
あれは見てはならないものだ。
見る者全てがそう感じそう思い、
そして何とか視線を逸らそうとした。
しかし異形の放つ名状しがたい気配によって
首を動かすどころか瞼を閉じることすら許されず、
動き出したそれを凝視し続けた。
ある兵士は小刻みに震え
ぼろぼろと涙を流しつつ引き攣った。
ある兵士は甲高い笑い声と共に
槍や盾を捨て地に臥しもがき始めた。
ある兵士はふらふらと
吸い込まれるように異形へ向かって歩き出した。
見る者全てを狂気へと誘い、
現出したそれは伸び上がるようにして身体を震わせた。
異形を中心に闇色の光の同心円が発生して一気に宙を飛び拡散し、
一拍、二拍。三拍目に巨大な金属の擦過音となって荒野の全てを震わせた。
それは「魔」と呼ばれる大いなる存在の顕現であった。




