サイアスの千日物語 四十五日目 その五
「ヒッ! ッ……ッ!」
波打つような黒々としたわだかまりを直視して、
歩哨の一人は悲鳴以上の言葉を紡ぐことができなかった。
纏い慣れた甲冑の重みに耐えかねて座り込み、引き攣る様に
浅い呼吸を繰り返した。この兵士は入砦して半年目であり、
実戦を一度経たきりの、新兵の呼称が取れて間もない若者だった。
「て、敵襲!! 大口手足多数! 縦長数体!!」
もう一人の歩哨が大声で叫び、座り込む兵士の襟首を掴んで
引きずる様に後退した。聞き及んだ仲間の兵士が数名飛び出し、
共に座り込む若手を急いで引き入れた。そして若手の兜の
面頬を上げ数度頬をはたいたところ辛うじて正気を取り戻したため、
兜に拳骨を落として叱咤し、抱えるようにして戦列へと招き入れた。
南方から迫る眷属の群れは闇の中津波の様に膨れ上がって見え、
対峙するものを底なしの恐怖へと叩き込み、上下左右に奇怪に
揺れながら多量の肢をうねらせて兵らの詰める間隙へと迫っていた。
座標6-12の間隙を預かる小隊の長は部下を激励し
「来るぞ! 密集陣形! 防ぎきれ!!」
と叫び、兵士らは一斉に盾を掲げ防陣を構築し始めた。しかし。
ファランクスの最右翼を担う兵士が棒立ちとなって小刻みに震え、
集結する素振りを見せずファランクスは完成しなかった。
ファランクスは手にした大盾を掲げて自身の左側から正面を守り、
剥き出しとなる右側を隣の兵士がその大盾で保護することで
連結した大盾による防壁を構築し、敵の猛攻を弾き押し返す陣形だ。
左方の兵士は自身の弱点となる右側を右隣りの兵士の大盾で覆われ
堅牢なる守備のもと戦闘に臨めるが、最右翼の兵士には
自身の右側を護る味方の盾がない。
そのため右側面の兵士は最も命を落としやすく、
それゆえ隊内で最も精強なる勇者が担うこととなっていた。
この小隊の最右翼を担う兵士もまた、若いながらも
第二戦隊に借り出されて部隊の前衛を担ったこともある
戦力指数3の猛者であり、将来は精兵隊入りをも嘱望される
有望株であった。第一戦隊の兵士は概して身的能力に優れ、
強者となり得る素養の高い者が多かったが、一方
防衛戦専門であるために実戦経験を積む機会が少なく、
有望株は第二戦隊へと出向し、
盾使いとして場数を踏むことも多かった。
しかしながら、
彼が宴の最前線で防備を担うのはこれが初であった。
そして二戦隊の哨戒任務で出遭う精々小隊規模の眷属なら知らず、
南方の闇を覆い隠す100を超す眷属の群れと対峙した結果、
津波の様な毛並と肢と眼光に恐怖とそれを上回る忌避感や
嫌悪感を感じ、命に応じて参じることができなくなっていた。
一言でいえば、心が折れてしまっていた。
人より遥かに強大な異形の存在と対峙して
怯まず剣を取る者は稀である。
そして視界を埋め尽くす異形の群れを前にして
退かずその身を盾と成し得る者など、さらに稀であった。
小隊兵士らは失望と絶望に舌打ちしつつも
硬直する兵士を叱責することは無かった。
いやその様な余裕などありはしなかった。
大口手足の先陣は既に眼前に迫り、
縦横無尽にワシャワシャと肢を動かしつつ
兵らに向かって突進してきたのだった。
「チィッ!! このまま防ぐぞ!
踏み込めぇぃ!」
小隊の指揮を担う兵士長は声を振り絞ってそう命じ、
棒立ちになる兵士を残して陣形を固め、殺到する大口手足を
押し返すべく、門を塞ぐように立ちはだかった。
先鋒数体の大口手足はその人の腕に似た武骨な毛塗れの四肢を
ぐぃとかがめ、バネの如くに弾け飛び体当たりをおこなった。
密集陣形の兵士らは大盾ごと後方へと吹き飛ばされ、
地を削りつつ踏みとどまって辛うじて態勢を保っていたが、
強度の不十分な右翼の二人が薙ぎ払いで横へ吹き飛ばされて
脇の鉄塔に衝突し、倒れ込んだところをひったくるように
抱えこまれて門外へと引きずりだされてしまった。
御馳走を得た大口手足は掴んだ兵士に覆いかぶさり、
ベキメキと音と立てて捕食し始めた。
すると方々からさらに複数の大口手足が捕食中の獲物を
喰らおうと割り込み、うじゃうじゃと寄り集まって積み重なり、
ぐちゃぐちゃがつがつと音を立てた。
その勢いは凄まじく、互いの肢すら食い合う有様であり、
目の当りにした兵士の数名が嘔吐した。
「二列目前へ! 門の幅を埋めるぞ!!
ヤツらを決して中へ入れるな!!」
兵士長はなおも味方を統率し、雪崩を打って押し寄せる敵を
押し返すべく再び陣形を組んで間隙を阻んだ。勇敢なる兵士らの
ファランクスは大口手足らの突進を弾き返し、兵士を引っ掛け
引きずり出そうとする肢の爪を防ぎきってかろうじて門を死守した、
いや死守したかに見えた。しかし数体が左右の鉄塔をよじ登り、
上からボトリと降って背後を取り、体当たりと薙ぎ払いで
数名をかっさらって密集陣に体当たりしつつ門外へと跳躍した。
さらに別の個体が棒立ちとなっていた兵士の足を掴んで
門の外へと放り投げ、飛ばされた兵士は黒いわだかまりの中へと落ち、
奇妙に折れ曲がってそのまま見えなくなった。
「くそっ、死守だ! 踏みとどまれ!
陣形を立て直せ! 防ぎきるぞ!」
ものの数分の防戦で6名の仲間を奪われ食われ、
小隊は残り9名となっていた。鉄塔に挟まれた門状の
ここ座標6-12の間隙は、体格が良く重装備の
第一戦隊兵士であれば6名いれば塞ぎ得る。
指揮を執る兵士長はこれを成すべく三度味方を鼓舞したが、
戦友を目の前で貪り食われた精神的外傷で大半の者が
戦意を保てなくなっていた。辛うじて立っているといった体で、
ロクな構えをとることもなくただ茫然と食われゆく仲間を見つめ、
自分の番を待つ有様となっていた。




