サイアスの千日物語 四十二日目 その二
緩やかな下りを西へと進み始めると、僅かに空気が動きだした。
これまで城砦に阻まれていた地熱が北方の河川へと向かう川風であり、
ライン川のほとりにある故郷ラインドルフでは日々体験していた
昼夜で向きが真逆となるこの風に、サイアスはふと懐かしさを覚えた。
闇中でも風土は確かに存在するのだと当然のことをサイアスは再認識し、
風の運ぶ些細な音から周囲の情報を読み取ろうとしていた。
サイアスはデネブやニティヤに声を掛け、速やかに陣形を変更した。
サイアスを先頭にシラクサが続き、シラクサの斜め後方に二人を下げ、
左にデネブ、右にニティヤ。丁度正三角形の重心にシラクサを置く形で
闇の深淵へと歩を進め始めた。
シラクサは新たな陣形に意外性を感じていた。シラクサはこれまでに
城砦で使用されるありとあらゆる陣形を学び修めていたが、それらの中に
今サイアスが採用したこの陣形は無かった。攻撃主体の先鋭陣と
専守防衛の方陣を組み合わせたような恰好であり、闇中で周囲から
護衛対象を守るには、確かに有効な布陣であった。
おそらくはサイアスがこの場で考案したのだろう。こうした実地の機知や
即応力こそシラクサが学ぶべきものであり、シラクサは感嘆と、そして
微かな羨望を抱いて小さく頷き、サイアスの経歴を思いだしていた。
わずかひと月程の間に6度戦場に出て、それら全てにおいて活躍し、
数十の敵を討ち倒しそれに倍する味方を救った、遠く平原にまで
その名を知られる、武神の子である若き第四戦隊兵士長。
城砦騎士のみが持つとされる異名を二つも持ち、当人には異国である
カエリア王国の騎士の称号をも受勲した、将兵共に慕われる比類なき勇士。
女の自分が恥じ入る程の美貌と、天地を動かし鬼神をも泣かすその歌声。
到底現実味の無い、神話や物語に登場する英雄のような存在だった。
ずるい。シラクサはそう思った。妬んではならぬことも、
妬んでも何もならぬことも承知していたが、ついその様に思ってしまった。
遥か後方から現れてあっという間に自分を追い抜き、
今や決して届かぬ高みへと登りつめた日輪の如き存在。
シラクサの持たぬ煌びやかなものを無数に持ち、
今もなお満たされ続ける豊穣神の加護深き存在。
闇の荒野から見上げる城砦の篝火のような、憧憬の対象。
シラクサが闇の申し子だとすれば、サイアスはまさに光の御使いであった。
異能と引き換えに孤独と絶望を押し付けられてきた自分とは、まるで違う。
そのように感じたシラクサは、眩しさと悔しさで涙を零しそうになった。
「ずるくはないわ。貴方と同じよ。
サイアスもまた多くを失い、多くを耐えているのよ」
ニティヤに声を掛けられ、シラクサは、はっと我に返った。
どうやら不安や緊張からか、心の声が漏れていたらしい。
念話使いとしては痛恨の失態に、シラクサは縮こまるように恥じ入った。
「容姿は確かに反則な気はするわね……
けれどあれで結構抜けているし、実は相当な変わり者なのよ」
ニティヤは自分を棚上げしてそう言った。
それを受け、デネブが大げさに被りを振って肯定の音を立てた。
シラクサはサイアスが肩を竦めるのが見えたような気がした。
「……済みませんでした。任務中なのに」
シラクサは絞り出すような風情でそう念話を飛ばした。
「詫びるようなことは何もしていない。
闇に気持ちが滅入ってしまったんじゃないかな。
……そうだ」
サイアスは思いついたように付け加えた。
「今度うちに遊びにおいで。賑やかで楽しいよ」
「!?」
シラクサは生まれてこの方、人と仲良くなるということがなかった。
特異に過ぎる異能しかり、虚弱すぎる体質しかり。
常に独り隔離されるように育成され、そして入砦した。
育ての親となった退役騎士や軍師たちは皆一様に優しく厳しく、
十分な愛情を注いではくれた。だが、それで幼心の全てが満たされていた
訳でもなかったのだ。ずっと願っていた優しい声を掛けられて
シラクサは思わず声をあげて泣き出しそうになったが、
さすがに心の声を漏らすヘマはもうせず、沈黙を守るに留まった。
「それが良いわ。ロイエやベリルもきっと喜ぶもの。
それにちょっとくらいならサイアスを貸してあげるわよ。
私のものであることは明言しておくけれど」
ニティヤはサイアスの言に賛同し、
そればかりかとんでもないことを言い出した。
「私は人形かぬいぐるみか」
「そうよ。知らなかったの?」
「ヴァディス姉さんといい、私の扱いが酷過ぎる」
「おーいお前ら。こんなとこでノロケんな。
独り身にゃきっついんだよ……」
「まったくだ。これならぶん殴られた方が数倍マシだぜ」
前方から苦笑交じりの兵士らの声が届いた。
「シラクサよ。何ならお前もサイアスの嫁になればどうだ。
今だと4号か? まぁラインドルフ的には大助かりだろう」
「!!?」
ベオルクが愉快げに声を上げ、
シラクサはあまりの内容に唖然とした。
「ベオルク副長閣下。無責任な発言はお控えください」
サイアスが淡々とベオルクを咎めた。
「サイアス兵士長。閣下はよせと言っているだろう」
ベオルクが事務的にそう答えた。
「はーい。おヒゲのオジ様」
「おい! お前! おい!」
魔や眷属の闊歩する荒野、激戦の宴が間近な黒の月の闇の中だというのに、
一行は意にも介さずバカ笑いを始めた。シラクサは自身を棚上げして
この連中は絶対におかしい、とそう思った。そしてすぐにはっとして
皆が自分に気を遣ってくれているのだと気付き、念話として漏らさぬよう
細心の注意を払いつつ、心の中でありがとうと呟いた。




