サイアスの千日物語 三十九日目 その二十五
一通り伝手をまわり、居室へと戻ったサイアスは
下準備はこの程度で良かろうと見切りを付け、
自身の準備に取り掛かることとした。
サイアス自身が主旋律の独奏を担当するのは一曲目。
郷愁と別離を歌う美しくも物悲しい曲だった。
川の乙女等と同様、水にまつわる曲であり、低音から高音まで
行きつ戻りつ流れるせせらぎのごとき伴奏に乗せ、
涙を誘う主旋律が滔滔と歌うハープによる演奏であった。
速度と密度の違う二種の旋律を同時に精密に弾き続ける
狂った難度を誇る曲でもあり、手が二つでは到底足りぬと感じる
弾き手泣かせの曲でもあった。
サイアスは実家から届けられた愛用のハープを
抱きかかえるようにして、副、主と二つの旋律の出来を
確かめ、諸所区切りを入れつつ確かなものにしていった。
デネブは家事に励みつつ時折手を止めてその様を見つめ、
ニティヤはソファーで曲に合わせて揺れながら、
機嫌良さげに編み物をしていた。
ロイエは聴くとはなしに聴きつつ帳簿や書類に始末を付け、
ベリルは机に向かって書に目を通し、意外な程集中して
薬学の勉強に励んでいた。
暫くして得心のいったらしきサイアスは
残る二曲についても一通り確認し、次いで楽譜との睨めっこに移った。
羽ペンを手に、しきりに書き込みをしたり、写しを取ったり
白紙の譜面に新たに書き起こしたりと、暫くは熱心に手を動かしていた。
が、やがて腕組みをして黙り込み、首を捻ったりぶつぶつ呟いたり
頭を抱えて唸りだしたりと、端からは危ない人にしか見えぬ有様となって
延々と楽譜との戦闘を繰り広げていた。
戦況はさらに悪化して、床に転がりゴロンゴロンと暴れ出したため、
見かねたロイエに摘まみ上げられ、ペッ、とソファーへ放逐された。
サイアスは気にした様子もなくなおもぶつぶつと悩み耽り、暫くして
何とそのまま寝息を立て始め、周囲が呆れて顔を見合わせるなか
突然むくりと起き上がった。
「O Freunde , nichit diese Toene !(おぉ友よ、斯様な音ではない!)」
そう叫ぶとサイアスは洗面所へ向かい、ザブザブと顔を洗って
身支度を整え、何かに憑かれたように居室を後にした。
それを慌ててデネブが追いかけていった。
「ふむ、それで我々のもとへ来られたのか……」
城砦内郭北東区画、第一戦隊営舎前広場。
昼夜を問わず兵士たちが稽古に任務に精を出す活気のあるこの場所に、
サイアスは第一戦隊教導隊の騎士ルメールを訪ねてやってきていた。
「現状主となる楽器はリュートを中心とした撥弦楽器であり、
クライマックスとなる三曲目の迫力ある演奏を担うには
やや音量が足りません、下手をすると銅鑼や軍鼓にかき消され
聞こえなくなる可能性もあるのです。こう言った場合、主旋律は
金管楽器で演奏すると良いのですが、あいにく城砦には数が少なく、
これを補うべく男声合唱を用いたいと思ったのです」
サイアスは熱心にルメールに説明してみせた。
「私は音楽には疎いのだが、
我らの声が必要とされている現状についてはよく判った。
補充兵の門出を祝う一助となれるのであれば、
こちらからも是非、お願いしたい。
そうだな、ここは教導隊から美声の者を10名選りすぐり、
貴下に預けることとしよう。無論私も参加する。
宜しく使いまわして頂きたい」
「おぉ、有難きお言葉。楽譜はこちらに写しを。
特に著名な曲ばかりですので、練習はしやすいかと。
また、翌朝ブーク閣下の指揮下で音合わせを
いたしますので宜しく覚えおきくださいませ」
「了解した。何、訓練や練習は我々の十八番だ。
それが武器であれ声であれ、必ず使える水準に仕上げてみせよう。
我ら一同、明日を楽しみにさせて貰うよ」
ルメールは笑って頷き、サイアスに敬礼した。
サイアスとデネブもまた敬礼し、一しきり礼を述べて
本城へと来た道を引き返していった。
「サイアス! まったく、随分探したぞ!」
本城を十字に貫く目貫通りの東大路の西外れ。
中央塔が目前に迫る辺りで、やたらとよく響く女性の声が
サイアスらを捉えた。サイアスとデネブが声のした方を見やると、
ピンクの武装に身を包んだ見覚えのある人物が
ガチャガチャと足早に寄ってくるところだった。
「おー、ラッパみたいな荒っぽい声だ。
すっかり失念していたな……」
「何ぃ! 誰がアッパラパーか! 無礼であるぞ!
私の全身から滲みでる知的オーラにひれ伏すが良い!
私の名前はセメレーだ!」
「相変わらずな…… ふむ、しかしいい声だ。
大声なのに音割れもない。滑舌も良いしよく通る」
サイアスはそう言ってセメレーを見て頷いた。
デネブは耳鳴りがするのか数度首を振っていた。
「それでセメレー、どうかしたの?
私になにか用件でも」
「どうしたもこうしたもあるか!
うちの剣聖閣下が明日の演奏の噂を聞きつけてだな、
『あいつはいつになったら俺に出演依頼をしに来るんだ』
とゴネてうるさいから、閣下の邪な野望を阻止すべく、
私が替わりの出演者としてこうしてお主を追ってきたのだ!
右も左も避け方も判らぬいたいけな補充兵のヒヨッコどもに
いきなり消せない悪夢を植え付けて戦闘不能の憂き目を見せるのは、
流石の我らも気が引けるからな……」
「……成程。
それは何というか、ご苦労様……」
「うむ! いつものことだがな!
まぁそういう訳だから、私を二戦隊代表として
明日の演目に出すがいい! 楽器はさっぱりだが
声には自信がある! 歌姫なんぞに遅れはとらんぞ!」
「声のデカさではそっちの勝ちだよ……
容姿ともども美しさはこっちの圧勝だけどね」
「何ぃ! 聞き捨てならんぞ! 美貌も私の方が上だ!
見よこの女神の如き麗しさを! 眷属も思わず逃げていくぞ!」
「……それは、何と言うか。
冗談なのか本気なのか判らないな……」
サイアスは溜息をつき、取りあえずセメレーに曲目を伝えた。
「明日朝ブーク閣下の指揮のもと音合わせをするので、
その時までに一通り歌えるようにしておいて。
桃色麗姫の美声、楽しみにしているよ」




