サイアスの千日物語 三十九日目 その三
午前九時半。
第三戦隊営舎二階、第一会議室にて。
指導教官たる軍師ルジヌが時間に寸分の
狂いなく補佐の兵士らと共に入室し、
そして二連打三度の鐘が鳴った。
「おはようございます。
まずは連絡事項があります」
ルジヌは欠片の抑揚もなく淡々と語った。
「事前の通達で最大20日間前後とお伝えしていた
貴方がた補充兵に対する訓練課程ですが、
明日午前を以て切り上げる方針となりました。
これは当初の予定のうち後半部分にあたる
各戦隊に仮配属しての研修を省略した形であり、
皆さんは明日午後の配属式を以て各戦隊に対し
正式配属となり、以降は配属先にて実地指導を
受けることとなります」
第一組は少数であることもあってか、
意外な程動揺は見られなかった。
「その様子ですと、理由についても
ある程度把握しているようですね……」
ルジヌは眼鏡に手をやりつつ静かに頷き、
「今月が明日で終わり、そして新たに上る月が
『黒』である可能性が高いという噂は、既に
兵士たちの間でも広まりつつあります。
結論から言って、翌月が黒い月である蓋然性は
9割9分9厘であるとの試算がなされています。
噂は事実と見なしてよいでしょう」
と、ある意味トドメとなる事実を伝えた。
「『黒い月』とは黒い光を放つ月です。
この光は星々の輝きや篝火さえも浸食する強力なものであり、
黒い月の出ている荒野の夜は、限りなく闇夜に近いものとなります。
黒い月のもたらす闇は大変深く、事象として大変興味深いものでは
ありますが、一方で大変な危険をも伴います。
信じがたいことに、極稀ながら、この月の出る一か月間には
城砦内にすら眷属が出現することもあるのです。また、
現在密である各営舎と本城、また外郭と内郭の連絡は断続的となり、
夜間、各営舎はそれぞれ独立した出城として防備を固め、
慎重に迎撃態勢を整えることになりますので、配属後は各隊の指示に
従い、夜間の外出はこれを厳に戒める方向で考慮ください。
黒い月の期間において、城砦内に出没するのはもっぱら
飛行能力を有する羽牙等の小物です。が、常に緊張を強いられるため
精神的に衰弱し、ありもしない幽霊やら魔人やらを見た等、
根も葉もない噂で自縄自縛となる者も多く、
夜は内なる恐怖との戦いの時間となってしまう点も否めません。
指揮官候補たる貴方がたは、配下にそういった恐怖からくる
諸症状が出ることを防ぐべく、平時より声掛け等の気配りで
配下の精神を良い状態に保つよう心掛けてください」
「さて、この黒い月の出る夜、魔にとり最も有利な状況となる
この闇夜のうちのいずれかに、魔と眷属による大規模な
軍事進攻である『宴』が起きることとなります。
黒い月のでる期間のうち、いつ宴が起こるかは正確には不明です。
が、当城砦での100年に渡る戦闘記録から、
おおよその日取りを計算で求めることは可能です。
参謀部の試算によれば、此度の宴は比較的早い時期に発生するだろう
と言われています。特に今後十日間は最大限の警戒を払う
必要があるでしょう。黒い月が出たら、以降宴とその事後処理が
片付くまで城砦は完全な臨戦態勢に入ります。
補充兵への教導は非常に困難となる旨、予めご了承ください。」
「元来、貴方がた補充兵は、宴への善後策として平原から提供された
存在であり、専ら宴の後の戦力立て直しに活用されるところとなります。
それゆえ此度の宴については出番のない方が大半であり、
補充兵に与えられた最後の生存猶予期間、通称『最後の二十日間』は
これをほぼ保障されることになります。無論、城砦陥落という事態に
陥った場合はその限りではありませんが。
一方、現時点で既に配属済みの方に関しては、此度の宴においても
何らかの任務が与えられる可能性があります。恐怖や焦燥に呑まれる
ことなく、鋭意励まれ、見事任務を達成されることを期待しています」
ルジヌはサイアスを見て幽かに微笑み、頷いた。
サイアスもまた微笑み、しかと頷いた。
「さて、前置きが長くなりましたが、訓練課程第9日目、
午前の講義を開始いたします」
ルジヌの言葉を受け、補佐の兵士たちが冊子を配布し始めた。
冊子は教本といって良い水準の、出来のよいものであり、
補充兵たちはこれが、ある種餞別に近いものであると、
漠然としかし直観的に感じていた。
「今配布しましたのは、城砦での戦術と陣形に関する簡易教本です。
本来は兵士長の地位に達したものに通し番号を入れて製本したものを
配布しています。皆さんは士官候補生ですので、先行して情報を
与えるに相応しいとの判断に基づき、第三戦隊長より許可を得て
特に重要な個所のみを抜粋して仮製本した簡易版を配布しております」
自分たちが選ばれた存在である、と厳しい上司から認められ、
補充兵たちの顔は否が応にも誇りと共に引き締まった。
そして続くルジヌの講義を一字一句逃すまいと、
全身全霊で聞く態勢に入った。
選別された人材であるとはいえ、有象無象のヒヨっ子に過ぎなかった
未熟な補充兵がここまで内面的な成長を見せていることに、
ルジヌは微かな笑みを浮かべ、満足していた。
「ではまずは2ページ、『城砦戦術総論』から確認します。
城砦戦術の基本は、『誘引・防衛・邀撃』の3柱から
成り立っています。総論ゆえ多分に戦略的な内容を含むところと
なりますが、とまれまずは1柱目、『誘引』についてお話しましょう。
当城砦、すなわち西域守護城砦中央城砦は、平原に魔や眷属が
侵攻し流入するのを防ぐため、荒野の東端にほど近い、
天然の要害たる大湿原の西方、南北の隘路の手前に建設され、
諸所の軍事行動を行っております。
これは魔軍にとっては目障り極まりなく、
また当城砦の高過ぎぬ城壁、多過ぎぬ兵員数は、
侵攻前にまず叩き潰して後顧の憂いを絶たんと判断させる
に足る程度に計算され尽くして存在しています。
また強大な力を持つ魔であっても、日中行動不能な点を
勘案すると侵攻可能な範囲はかつて『血の宴』で滅亡せしめた
水の文明圏がせいぜいであるため、長征の危険を冒すより
わざわざ荒野に出張って仕掛けられた餌箱から、
適宜餌を摘まむ方が効率がよい、というのもあります。
そのためこうした駆け引きを踏まえた形で、当城砦は
陸の孤島として、また差しだされた餌箱として、
敵を『誘引』しているのです」




