サイアスの千日物語 三十九日目
早朝。ロイエは隣室から聴こえてくる
甘い音色に誘われ、幼い頃を想いだしていた。
子供の頃、滅多に無事で揃わぬ両親と
共に過ごした数少ない思い出。
優しい口調で話すのが苦手な父に、
不器用な声で絵本を読んで貰ったこと。
戦で早くに死んでしまった家事の苦手な母が、
数少ない得意料理をはにかみつつ振る舞ってくれたこと。
そうしたことを想いだしてロイエは知らず涙を流し、
そのまま再び微睡みに落ちた。
「はっ!? 不覚! 二度寝した!!」
ややあって飛び起きたロイエは室内を見回したが、
増設した寝台には、既にベリルはいなかった。
慌ててブレーを履きガンビスンを引っかけて勢い良く
応接室に飛び出すと、丁度サイアスが一曲弾き終わり、
近くのソファーではニティヤとベリルが子猫のように
ひっついてまったりと聴き耽っていたところであり、
デネブは卓上に静かに4名分の茶を煎れているところだった。
「このーっ! よくも泣かしてくれたわねっ!」
ロイエは早速サイアスに突っかかっていき、
背後からへばりついた。
「……もっかい弾いてくれたら許してあげるわ」
サイアスは突然飛びかかってきたロイエの声が
震えていること、首筋にこすりつけられた顔が
濡れていることに気付き、何も言わずもう一度、
子供時代の情景を描く、夢見がちなその曲を弾き始めた。
ロイエはソファーに向かい、もはや涙を隠そうともせず、
ベリルやニティヤをクッション代わりに抱きしめながら、
懐かしく甘い、在りし日の記憶を思い出していた。
「はぁ…… 朝っぱらから疲れちゃったわ。
今日は私もサボるか!」
ロイエが照れ半分、本音半分といった具合に声を上げた。
「訓練課程は多分明日で終わりだろうから、
出ておいた方がいいんじゃないかな」
サイアスはデネブの煎れた茶を喫しつつそう言った。
先日の飲み会、及び実家からの手紙により、
サイアスには副長命令として、平時に一日一曲以上の
演奏または歌唱が義務付けられていた。
実家にいた頃は毎日三時間みっちりだったので
驚異的に軽減されてはいるが、十中八九母からの命を
軍務として上官が命じることに対し、飲み会の最中
全力でジトジトとベオルクを見やりつつ抗議した。
ベオルクは酒のせいか、泣きそうな顔でむしろこれに逆ギレした。
曰く、本当は一時間のところを一曲にまけて貰っただの、
その交渉を含め、サイアスの身内には何度も殺されかけただの、
自慢のヒゲと泣き別れる所だっただの、どれだけ怖い思いをしたかだの、
グラドゥスにとっておきの茶菓子を食われただの。
サイアスとしては知ったことでは無かったが、
酔っ払いの相手は面倒なので、適当にいなして退散することにした。
ともあれサイアスは平時は毎日何かしら
音楽をやる羽目になり、たまたま早く起きたため、
今日は早朝にそれをやっていたらしかった。時刻は
丁度朝の7時。普段ならロイエが起き出す時間であった。
「今7時なのか……
私は寝坊してなかったのね!」
ロイエは何やら誇らしげにそう言った。
ロイエらには未だ玻璃の珠時計は支給されていないため、
時間に関する情報源は少なかったのだ。
「あの。訓練課程が明日で終わりって、何故ですか?」
ベリルがサイアスにそう問うた。
訓練課程は二十日間前後と、事前に通達されていたためだ。
ベリルはどのみち毎日勉学に勤しむため、さして
訓練課程自体は苦ではなく、むしろ楽しい部類だった。
「明日で今の月が終わりだから。
次の月は恐らく黒い」
「月が、黒い……?」
「そう。荒野には色んな色の月が上るんだよ。
そして黒い月が上るとき、その月のいずれかの夜に」
「宴、ね……」
サイアスの言をニティヤが引き継いだ。
ニティヤは今部屋にいる連中、すなわち家族とは完全に打ち解けて、
一人の娘としての自分を色濃く出すようになっていた。
とはいえ鍛え抜かれた暗殺者。切り替えは瞬時に行われた。
ニティヤはそう言うとフっと姿を消し、
ロイエは薄手のチュニックに引っ掛けただけの
ガンビスンを慌てて着込んだ。居室の扉がノックされ、
デネブが応対に向かったからだった。
室内にいる者たちが家族となる旨宣言してからは、
就寝中は戸締りもするようになっていた。
もっともいつ何時であれ、忍び込めば
デネブとニティヤが確実に迎撃し殲滅する上
マナサにはこの手の仕掛けはまるで効果がない。
結果今までと何ら変わらぬため、単に気分の問題と言えた。
「ちーっす。てうぉっ! サイアスが起きてる!?」
扉を開け、サイアス小隊の男衆が応接室に姿を見せた。
開口一番シェドが驚きの声を発し、続いてランドが
挨拶をしつつ入ってきた。ラーズはひょいと手をあげて
挨拶に換え、さっさと卓についてデネブの茶を待った。
「今日は朝からコンサートでした!」
ベリルは楽しげにそう言った。
「おろ、全然こっちにゃ音が聞こえてこなかったぜ」
シェドはそう言って首を傾げ、
「この部屋、改修時に壁を張りなおしたからね。
防音効果が高いんだよ」
サイアスはさらりとそう答えた。
「防音の部屋に女4人男1人……
えっちなのは、いけないと思います!」
シェドはニティヤの姿が見えないのを
十二分に確認してそう吠えた。
「何ようっさいわね。
他人様の家庭に口出すんじゃないわよ!」
「そ、そーだそーだ!」
ロイエとベリルが早速反論し、
「……懲りてないのね。
死なない程度には削るわよ……?」
と頭上からニティヤの言葉が降ってきたため、
シェドは究極の防御態勢、土下座の構えを見せた。
「お許しくだされ! お許しくだされぃ!
反省しております、この通りでおじゃりまするぅー!」
「……フェルモリア王家って
こんなヤツばっかなのか?」
ラーズは顔をしかめつつ、
デネブの煎れてくれた茶をすすった。
ラーズは内心、昨日コメントを控えた
自身の判断が正しかったことを再確認していた。
「経済力は随一なんだけどね、フェルモリア。
地方で反乱が絶えないとも聞くよ。
やっぱり王家の求心力に問題が……」
ランドが客観的な見地から見解を述べた。
そうこうするうち、デネブが厨房からトレイで朝食を運んできて、
ロイエとベリルが配膳を手伝った。
「デネブありがとう。デネブのお蔭で、
実家と変わらない生活ができているよ」
サイアスはそう言ってデネブを労った。
デネブは照れたか鎧を鳴らしてモジモジしていた。
「あーお前生活力皆無っぽいもんな」
シェドはそう言ってサイアスを冷やかしたが、
その場の全員から口を揃えて
「お前が言うな」
と言われ、しばらくシュンと大人しくなった。
サイアスの今朝の曲は、
シューマンの「トロイメライ」を
モチーフとしています。




