サイアスの千日物語 三十七日目 その六
川のほとりのある村に、一人の若者がやってきた。
国の境を守るべく、遣わされた見習い騎士だった。
凛々しく雄々しい若者にとり、村の暮らしは退屈だった。
しかしある日川べりで、若者は一人の娘にであった。
流れたゆたうその髪と、愁いを帯びたその瞳。
切なく甘いその歌声に、若者は心奪われた。
娘と若者は惹かれあい、やがて恋に落ちていった。
娘の歌声は喜びに満ち、若者の心は安らぎに満ちた。
やがて若者の故郷から、帰還を命ずる文が届き、
娘と暮らすその村の、遠く彼方へ去ることになった。
若者は共に行こうと娘に告げ、しかし娘は頷かなかった。
ここから離れることはできないと、ただ悲しげに泣いていた。
いつかきっと戻ってくる。それまで待っていて欲しい。
手柄を立てて騎士となり、再びこの地に戻ってくる。
若者は娘にそう告げて、銀の指輪を差しだした。
娘は零れる涙のままに、頷き若者を送り出した。
一年が過ぎ二年が行き、十と五年の月日が流れた。
若者はいつしか壮年となり、無数の武功を得た騎士となっていた。
王の近衛の騎士として、知らぬ者なき名を成して、
日々比類なき武勇をもって、国の都を守っていた。
あるとき騎士のその耳に、一つの噂が舞い込んだ。
国の境の川べりで、魔物が出るという噂。
儚く哀しい歌声で、道行く人を虜にし、
無数の命食む魔物の噂。
騎士はようやくにして思い出した。
かつて自分がした約束。娘と誓ったあの日のことを。
日に夜を継いで馬を駆り、騎士は彼方の村を目指した。
かつて村だったその場所は、今は草生す廃墟であった。
ただ立ち尽くす騎士の耳に、やがて懐かしい歌声が響いた。
儚く哀しく、切なく甘く。かつての喜びと今も続く悲しみと。
川の流れる音に合わせ、流れる声は紛れなく、愛した娘のものだった。
騎士は夢中で声を追い、やがて川辺に辿りついた。
川辺で騎士が見たものは、おぞましき魔物の姿であった。
魔物は娘の声で言った。
今一度、一目で良いから遭いたかった。
ただその想いだけを胸に、魔物となって歌い続けた。
こうして願いは叶ったが、私はもはやおぞましき魔物。
魔物を討ち滅ぼすが騎士。貴方の剣にかかりましょう。
近寄る騎士に両手を広げ、魔物となった娘は歌い続けた。
それは喜びに満ちた春の歌。かつての幸せな日々の歌。
騎士は魔物を剣にかけ、倒れる魔物に寄りすがった。
魔物はふるえる手を掲げ、騎士に指輪を差しだした。
かつて騎士が与えた指輪。いつか戻ると約した指輪。
騎士は剣を盾を捨て、魔物となった娘を抱きしめた。
声が嗄れ、涙も涸れるまで泣き続け、
騎士は指輪とむくろを抱きかかえた。
騎士は川へと歩みゆき、むくろとともに身を投げた。
川の流れは二人を隠し、ひとかたの水泡が波紋となった。
国の境の魔物の噂は、この時を境にふつりと絶えた。
国の境の川べりには、別の噂が流れるようになった。
流れる川のせせらぎに混じって、歌声が聞こえてくるのだと。
儚く優しく切なく響く、川の乙女のその歌声が。
サイアスはいつしか涙を流していた。川の乙女の想いに心馳せたのか、
騎士の想いに心揺れたのか。しかし実はそのいずれでも無かった。
かつてサイアスは言われるまま、教えられるままに譜面を追い、
原曲の意向を忠実に再現すべく腐心し徹底して歌いこんでいた。
情感たっぷりに歌うことはあっても、それは言わば、演技であった。
しかし故郷を遠く離れ、親しい人々と彼方に隔たれたこと。旅と戦いを
通して出合いと別れを経験し、様々な人の言葉や生き方に触れたこと。
そうしたことが自分自身の在り様を変えつつあるのを感じていた。
冷徹なまでに研ぎ澄まされた旋律には今や身の内から沸き起こる
誠の感情が溢れ、想いは言霊となって世界を震わせていた。
これは乙女の涙でも騎士の涙でもなく、まして作曲者の涙でもない。
きっと自分の涙なのだ、とサイアスはそう感じていた。
やがて曲が終わりを迎え、サイアスは静かに余韻に身を預けた。
周囲から漏れる嗚咽はやがて爆発的な拍手と喝采に変わった。
拍手と歓声は第一会議室のみのものではなかった。隣室や廊下の
至る所から鳴り響き、サイアスを、ブークやルジヌを驚かせた。
どうやら他の組や三戦隊の兵士たちも、こぞって聞き耽っていたらしい。
サイアスはブークと顔を見合わせ苦笑した。
「ぅ、うっ、うぅぅううぅぅ……」
シェドが突っ伏して号泣し、
ランドはボロボロと涙を落としつつ何度も頷いていた。
ロイエは目と鼻を真っ赤にしてサイアスを抱きかかえると、
元通りデネブとの間に仕舞い込んだ。
「はぁ…… また泣かされたわ。でも今回は許してあげる!
……ねぇ。あんた、籠に入れて飼っていい?」
「私は小鳥か……」
サイアスは涙声で無茶を言うロイエに対し、苦笑した。
デネブはカタカタと震えていたが、サイアスは甲冑の鳴る音に紛れ、
中で何か別の音がしているのを聞いたような気がしていた。
幽かな声と雫の落ちるような、そんな音。耳を澄ますともう聞こえず、
さりとて気のせいとも思えず、サイアスは不思議な感覚を抱いていた。
「これはもう、講義どころではなくなってしまったねぇ……
いやはやルジヌ君には申し訳ないことをしてしまった」
ブークはしみじみとしてそう言った。
「いえ…… しかし軍師たる身でこれほど心動かされるとは
思いもしませんでしたが…… サイアスさんの声には
魔力が宿っているのかも知れませんね……」
ルジヌは眼鏡を直しつつサイアスをじっと見つめた。
「ふむ、ここは一つ、サイアス君を中心とした
軍楽隊の編成を検討しないといけないかな……」
ブークはそう言って笑っていた。
「うむ、その時には私もリュート担当で入れて貰」
ブークがそこまで言った折、廊下から派手な咳払いがした。
「閣下、こちらでしたか……
至急ご裁可頂きたい案件が山積しております。
執務室にお戻りくださいませ」
廊下には獲物を追いつめた獣の目をした女性兵士が立っていた。
「ぬぅ…… せ、せめてもう一曲どうだろうか!
ほら、皆もきっと喜ぶはず……」
「……」
女性兵士は無言でブークを凝視した。
「……判った戻るよ……」
ブークはシュンとして女性兵士を追い会議室を後にした。
一同はその様を声を殺して見守っていたが、
「閣下実はサボってたんかぃ!」
とシェドが大声を上げ、一転会議室は笑いに包まれた。
「川の乙女」の詩想は、16世紀のイタリアで作られたとされる
作者不詳の名曲「シチリアーナ」の旋律をモチーフとしています。




