サイアスの千日物語 序
人の主たる住処である平原の西方。
北の霊峰の雪解け水が泉となって川となり、
豊かさを増して滔滔と流れゆくそのほとり。
そこには小さな村があった。
城砦騎士ライナスが恩賞として得た辺境の地に
親族や縁者が入植して建てた戸数50程の
開拓村であり、川の名ラインと騎士ライナスの
その名にちなみ、ラインドルフと呼ばれていた。
城砦とは村よりさらに西方。
平原の終わりにして荒野の始まりに位置し、
人と魔の戦いの最前線となっている
3つの西域守護城砦のうち荒野に突出して在る
中央の一城、通称「人智の境界」のことである。
西域守護城砦のうち南北2城には
平原西部にある国家群が連合軍の体を成して
各国軍を派遣・駐留させ、人の生存圏たる平原の
防衛を任じ当たらせていた。
そしてただ一城、陸の孤島として
熾烈な攻防の舞台となっている中央城砦即ち
人智の境界には、連合軍隷下ながら独立した所領を
持つ準国家的な軍勢、「城砦騎士団」を配していた。
魔の軍勢との戦の矢面に立つ城砦騎士団の損耗は
筆舌に尽くし難く、尋常ではなかった。そのため
近隣国家や集落には、西方国家連合軍の令として
この城砦に対する恒久的な物資及び兵士提供の
義務が課せられていた。
ラインドルフはそもそもが城砦騎士団の所領ゆえ、
他で課せられる物資提供義務は存在しなかった。
また兵士提供義務に関しては、ラインドルフの
当主にして武神とも謳われる城砦騎士ライナスが
自ら城砦に在って戦ううちは、単騎でこれを担って
余りある状態であった。だが、この前提が崩れた。
春の終わり、大気がやや熱さをはらみ始める頃。
荒野の城砦から遠路ラインドルフへと早馬が駆けた。
使者はライナスの副官であった城砦騎士ベオルク。
内容はライナス戦死の一報だった。
ラインドルフは親類縁者でできた村である。
一族の安寧を一身に背負ってきた当主ライナスの
訃報による衝撃は、語るまでもないだろう。
憔悴しきった副官が再び任地へと戻り
わずかな遺品とともに村人総出で葬儀を済ませた頃、
村では当然のように今後への不安が渦巻いていた。
国家所属の騎士と異なり、城砦騎士は世襲ではない。
荒野の城砦で魔の軍勢と戦い、武功を連ねた
絶対強者のみが一代限りの偉大なる城砦騎士となる。
今暫くの猶予こそあれ、ラインドルフは遠からず
これまでライナスが単騎で担ってきた重責。即ち
兵士提供義務を果たさねばならなくなる。
村人たちの不安はそこにあった。
連合軍規定によれば、派兵義務は10戸につき1名。
荒野の城砦での戦況にも因るが、概ね一年に一度は
兵士を送ることになる。魔軍との戦闘は苛烈であり、
大抵は数年を待たず命を落とす。さすれば再び補充
せねばならぬ。要は今後、毎年5名前後の働き盛りを
荒野の城砦へと差し出すこととなる。
体力のない小村には致命的であった。
城砦騎士1名の提供は最低でも城砦兵士10名分に
相当する。武神ライナスは騎士の中の騎士。
城砦騎士長であったため、単騎にして実に
兵士数十名分の義務を果たしていた。逆算すれば
小規模な街一個分の活躍をしていたとも言える。
彼の様な比類なき勇者であったればこそ、この
ラインドルフはこれまで責務を賄い得ていた。
武神ライナスには息子が一人あった。
名をサイアス。齢17。平原一の美女と謳われる
母に似た、美麗な容貌を持つこの少年は
利発だが生来身体が弱く少女の如く華奢であり、
武神と称される程の偉丈夫ライナスの代わりが
務まるかなど、まるで論外な話だと思われていた。
生前ライナスの積んだ数々の武功を偲んだ
城砦側の計らいにより、ラインドルフにおける
兵士提供義務の開始には千日の猶予が与えられた。
この千日をいかに活かすか。
これがラインドルフの存亡を握るわけだ。
ライナスの妻グラティアと、その実兄。
利き腕を失うまでは自らも城砦騎士であった
ラインドルフの代官グラドゥスを中心に、
村では悲嘆に暮れたまま、連日結論のない
形だけの会合が持たれていた。
一方ライナスの一人息子であるサイアスは
そんな人々を尻目に着々と旅装を整え、
遠くない出立の日に備えていた。
遍く人の世。その歴史に燦然と輝きを放ち、
数多の言の葉となって永久に語られる
サイアスの千日物語はこうして幕を開けたのだった。