サイアスの千日物語 二十六日目 その九
人の住処たる平原の西、魔の闊歩する荒野の地平。
その最果てに落日は去り往き、色を失った倒景が
光の世界にひとときの猶予を与えていた。
それは瞬きひとつほどの猶予に過ぎず、再び目を開ければ
そこには新たな世界が広がっていた。
満天に広がる星々の大海と、金烏無き世の主たる、玉兎の彩る
暗くも輝かしい夜の世界が。
荒野中央に拡がる湿原地帯の西方、人の力など
欠片も及ばぬはずの場所に、石と鉄による人工の絶壁がそびえていた。
人の背丈の十倍に築き上げられたその壁は見やる者の視界を覆いつくし、
上部には無数のかがり火が焚かれ、魔も夜空をも総て焦がさんと、
盛んな勢いであらゆる敵対者を威嚇していた。
防壁は東西南北全方位に張り巡らされ、南北の中央部分には
巨大な門があった。門は左右にではなく、一枚目が上へ、
二枚目が前方へ跳ね上がって開く特殊な二重構造であり、
門の操作には十数名が専属で当たっているようだった。
輸送部隊はついに城砦の南門へと到達した。
アウクシリウムを進発してわずか二日の旅程でしかなかったが、
サイアスには随分長旅だったように感じられた。
防壁の上にはかなりの数の兵士が詰めており、門の外には三部隊が
隊伍を整え備えていた。三部隊の手前にはヴァディスたち偵察部隊と、
加えてよく似た装備の一群がいた。カエリア王立騎士団の駐留部隊だ。
展開していた三部隊はそれぞれ30名ほどで、
うち二部隊は三つの隊に分かれつつ防壁の左右へ散っていった。
哨戒任務に当たるのだ。残りの一部隊は輸送部隊の入砦を護衛し、
その後哨戒に回るらしい。カエリア王立騎士団は出迎えと搬入が
目的のようだった。
「ようやく着いたな。サイアス、ここが君の戦場だ」
ラグナは部下に馬を預けつつ、サイアスに語った。
「あとで話がある。少し待っていてくれたまえ」
そういうとラグナは出迎えの騎士たちの方へ歩き出した。
「お疲れさん。よくやったぞ」
輸送部隊の騎士たちは南門手前ですべて下馬し降車した。
そしてサイアスをねぎらい、肩を叩いて笑顔を向け、
馬車から少し離れて整列した。ヴァディスたちも列に加わる。
馬や馬車の搬入は城砦にいた部隊が引き継ぐようだ。
荷馬車から降りたサイアスのもとに、王立騎士たちと
入れ替わるようにして一人の騎士がやってきた。
サイアスの父ライナスの副官であった騎士ベオルクだ。
「サイアス。よく来てくれた」
喜びと哀しみ、期待と悔恨。
様々なものが入り混じった複雑な表情をしていた。
「それにしても見違えたよ。村にいた頃とは別人のようだ」
ベオルクはサイアスを眩しげに見つめ、微かに笑んだ。
「もう何年も旅をしてきたような気がします。
アウクシリウムを出て二日、ラインドルフを出てから
まだ一月も経っていないのに」
サイアスは感慨深げに言った。
ベオルクは目を細めた。
「そうか、そうだな……
知っての通りここは人の領域ではない。
魔の支配する魔の世界だ。荒野に踏み入った瞬間から、
人は自らを護る様々な術と決別し、魔の統べる新たな世界と
向き合う。言わば二つ目の人生を生きるようなものだ」
「はい……」
サイアスは城砦の防壁を見やり、そして振り返った。
背後に広がる夜の荒野、その遥か東にあるはずの故郷、
母や伯父たちの暮らす故郷ラインドルフを想った。
様々な想いと想い出が浮かんでは消え、去来する万感の想いは
言葉にするのが難しく、形にできたのはただ一言だけだった。
着いたよ……
サイアスは消え入りそうな声でそう呟いた。
しばし目を閉じやがて頷き、騎士ベオルクへと振り返った。
ベオルクはサイアスの様子をただ黙って見守っていたが、
振り返ったサイアスの透き通った表情に深く頷き、告げた。
「ようこそサイアス。人智の境界へ」